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中村伊知哉のボストン一夜漬け通信  98.2- 月刊ニューメディア
第22話  2000年11月号
■かけがえのないアナログ

 拝啓ご無沙汰しております。いま私は海底100フィートにおります。観光用の潜水艦です。カリブ海です。メキシコのコスメル島です。円窓の外では緑がかった青い珊瑚に深い青の小魚がじゃれています。上空でギラギラ音をたてている太陽が、100フィートの真っ青な海水の空間に、抜けるように白い青の光を差し込んでいます。おびただしい青のパノラマです。
 エンジンのうめき声が低く響いています。すすけた船内にこびりついた油の臭いがその音とシンクロしています。肌にまとわりつく湿気が海底の閉塞感を演出しています。なんとも絵空事な窓の外と、じっとりリアルな船内との対比が、今ここでしか体験できないアナログなライブ感をなしています。
 先日フロリダのテーマパークを訪れた際、バーチャル・リアリティー系の出し物がずいぶん進化していて感心しました。バクズ・ライフにしろ、ターミネイターにしろ、3DのCGが迫真でスリリングで、技術的にはもう十分という気がしました。
 さらに、シーンに応じて、客席に風が吹いたり、水滴がしたたったり、臭いも出てきたりして、その視聴覚から触覚、嗅覚を総動員させた徹底的な演出には、アメリカお得意のエンタテイメント精神がぬっとむきだしになっているような感触を覚えた次第です。おそらくこれからもこのようなエンタテイメント技術が追求されて、アメリカの娯楽が世界中を楽しませていってくれるのでしょう。
 しかしリアルさを再現する技術とリアリティーとは別物です。同じバーチャル・リアリティーもので、技術的な仕掛けは高度ではないのですが、往年のアニメのキャラクターがたくさん登場するものもあります。ハンナ・バーバラのブースです。
 幼いころ私がテレビの前でワクワクしていたのと同じように、私はそのキャラクターたちと同化し、客観として楽しむというより、すっかり溶け込んでしまいました。生い立ちや生活に触れたとたんリアリティーがふくらみます。リアリティーを感じさせるには、表現技法よりも世界観の作用が大きいのでしょう。テクノロジーよりも作家の構成力の勝負なのでしょうね。
 リアル度をデジタル技術で高めても、せいぜいリアルな世界に接近するだけですから、現実の潜水艦で味わうリアリティーを超えることはできません。リアル技術は、アミューズメントよりも、コミュニケーションのツールとして真価を発揮するように思います。
 そういえばセガが東京都内のゲームセンターを光ファイバーで結ぶ実験を始めました。映像データベースとマルチ端末をギガビット級でつないで遊ぶものです。テレビ画像やゲームでリアルタイムにコミュニケーションするアプリケーションを開発したり、そうした需要がどの程度あるかを探ったりするのは、ビジネスというより、国のストラテジーに近い取組であるように思います。
 テレビや映画のコンテンツをデジタルでアーカイブ化して使うことも試行しているのですが、これも通信と放送の融合に関わる一つのモデルと言えるでしょう。放送番組の二次使用は5%に過ぎないといいます。95%の放送コンテンツは一度タレ流しておしまいということです。テレビ大国ニッポンは、この映像資産をいかにネットワークで活用していくかが重要課題です。
 私の所属するメディアラボは、人の認識や感覚をコンピュータに理解させる技術を開発しています。いまのコンピュータは、机の上の画面をにらんでキーボードを叩くという使い方を強制していますが、それは不自由です。もっと人とデジタルを融和させなければなりません。その例がモバイルであり、ウェアラブルであります。メディアラボはウェアラブルのメッカです。
 しかし、パソコンをバラバラにして、持ち歩いたり手ぶら化したりするようになってもまだ十分ではありません。手ぶらでも音声などで人がコンピュータに明確な意志を指示する必要があり、人とコンピュータの従属関係は基本的に変わりがないからです。
 そこで例えば、表情や身ぶり手振りといった感情表現をコンピュータに理解させるため、視線の動きや筋肉の収縮をコンピュータにインプットする技術を開拓しています。また、脈拍、体温、呼吸、発汗などの量を測定してインプットすることも進めています。
 こうした無意識の感覚をコンピュータに指示するわけですが、実際に開発しているのは、視線の動きでゲームのキャラクターを移動させたり、脈や汗のドキドキ量に応じてレゴで作ったロボットを動かしたり、およそアカデミック論文的でないケッタイなアプリケーションでして、その無意味っぽさが、デジタルのオモチャ箱と呼ばれるメディアラボ的であります。
 この夏から東京ジョイポリスにメディアラボのコーナーを作って、いくつかのガジェットを常設展示しています。最新技術の提示というだけでなく、テクノロジーとアートの融合というメディアラボのテーマも少しご理解いただける展示と思います。オモチャや学習のセンターという色彩もご覧いただければ伝わるものと存じます。
 実は同じようなテイストの施設を関西文化学研都市にも2001年の春に開設する計画を進めています。いずれお知らせ致します。先日、その調整のため、予定地のそばにあるATR(国際電気通信基礎技術研究所)にお邪魔し、アーティストの土佐尚子さんの作品をいじって参りました。無意識というものを表出させてインタラクティブにアート表現するものです。
 国際的にも著名な方ですからあえて説明するまでもありませんが、例えば、二人のプレイヤーの心拍を測定して、互いの緊張度や関心度に応じて、人魚のエージェントが感情を表現するアート「無意識の流れ」。3D映像のキャラクターと会話でコミュニケーションしながら、声の抑揚で感情をシンクロさせて、詩を作り上げていく「インタラクティブ・ポエム」。不思議な手触り感と世界観はメディアラボと共鳴するところ大で、じじつ彼女は秋からMITに来て共同研究を始めるそうです。
 
 ずいぶん話が流れてしまいました。カリブ海なのです。メキシコなのです。港の街並みはコスタデルソルを思わせるオレンジ系で、海の青や空の青と厳しいコントラストを見せています。
 しかしここは現実です。路地には屋根のない板張りの民家が並んでいますが雨の夜はどうしているのでしょう。行き交う自転車にはブレーキがついていませんがどう止まるのでしょう。八百屋さんではサボテンが売られていますがどう調理するのでしょう。
 父子とおぼしき二人が体より大きい布袋を背負い汗みずくで這うように歩いていきます、袋には馬の置物がたくさん詰まっていますが、あれだけ売っていくらになるのでしょう。彼らはみな無口で、その目は一様に鋭く、まっすぐ前を見やり、その先には何があるのでしょう。
 国民的英雄ボクサー、フリオ・セサール・チャベスの看板があります。まだ現役なのでしょうか。私もメキシコ人といえば、名前が出てくるのが、ルーベン・オリバレス、カルロス・サラテ、ルペ・ピントール、ミゲル・カント、と、ボクサーばかりですが、小さい体一つで世界と闘うということの意味がここにはまだ息づいているような気がします。
 その脇に、インターネットカフェの看板がかかっています。携帯電話の加入を勧誘する看板もあります。世界のデジタルは、時間が止まっているようなこんなアナログの土地にも否応なく侵入してきているようです。
 海と空の沖縄で開かれたサミットで採択されたIT憲章は、国際的なデジタルデバイドに焦点を当てました。日本の首相が世界にIT、ITと唱えたという形は、内容はともかく、すこぶる結構なことです。しかしながら、デジタルデバイドを国際問題に持ち込むには、慎重な戦略が求められます。
 デジタルデバイド、以下DDとしますが、DDはアメリカの国内問題でした。地域・所得・人種間の格差解消です。そこには国内市場の拡大という産業の論理も横たわっています。その国際化は、アメリカによる世界市場の拡大という意味、より端的には、途上国の囲い込みという意図があることは当然です。
 93年にクリントン政権が国内情報基盤NIIを唱え、翌年に国際情報基盤GIIを唱え、96年ごろにそれがインターネットとして定着しました。先進各国はこのインフラ市場の整備・拡張戦略に乗せられていきました。するとアメリカはアプリケーション政策に駒を進めました。eコマースとエデュケーション、いわばEEです。90年代後半、NEEがGEEとなり、現在各国はその調整に取り組んでいます。
 ハードからソフトへと来て、今度はそれらを合わせたNDDからGDDです。美しい流れに見えます。問題は、日本としてどうするか、日本的な解決手法を世界に訴えることができるかどうかでしょう。アメリカ型のPC-インターネットとは別の、例えばケータイやゲーム機や家電などの力でネットワーク化を進めるような具体策が講じられないものでしょうか。
 アメリカから眺めれば、日本もその他の国もみなデジタル後進国なのかもしれません。でも、日本の方が勝っている点もあるはずです。そうですね、コンビニ・デバイド(CD)、マンガ・デバイド(MD)、ラブホテル・デバイド(LD)、うむ、やはり、あまりないのでしょうか。
 しかしどうでしょう。いま私のいるこの場所の圧倒的なアナログ感は。アメリカも日本も、ここからみればとうてい追いつくことのできないアナログ・デバイドです。いまは地球がデジタル一色に塗りこめられる過渡期なのでしょうか。それともこんなアナログやあんなアナログが、デジタルと愉快に調和していくことになるのでしょうか。
 ではまた気が向けばお便りします。敬具
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