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中村伊知哉のボストン一夜漬け通信  98.2- 月刊ニューメディア
第16話  2000年5月号
■パンクにひっくりかえせ

 これが青というものだ。それを求めてデュフィもマティスもコートダジュールに来たはずだ。日常を突き破る空と海の光。青の暴力。
 MILIA。南仏カンヌで開かれるデジタルコンテントのイベント。今年で7回目となる。カンヌ映画祭のデジタル版と言えばいいか。そのMILIA大賞の審査員としてノコノコやって来た。
 パリから5年ぶりにニースの空港に降り立ち、レンタカーに乗り込んで、ふとカンヌと反対に向かった。カンヌに着いたら抜け出せなくなるような気がして。モナコのGPコースをぐるぐるして、国境を超えてイタリアに入り、ちょっとぐるぐるして、夜半おずおずとカンヌ入りした。予感は正しかった。翌朝からは缶詰となった。
 審査員は米英独日の代表4名。別建てのゲーム部門を除き、6ジャンルのデジタル作品を片っ端からけなしたりほめたりする。するとすぐ対立する。製品のクオリティか、実験精神を取るか。テクノロジーの高さか、ビジュアルの美しさを取るのか。
 例えば教育ジャンルでは、音や映像を組み合わせてダンスの芝居を作る編集ツールと、算数ゲームソフトとが深刻に対立した。商品としての完成度は算数ソフトが圧倒的に上。これを米英が強力に推した。片やダンス編集の意義は、アートを組み立てるという新奇性、子供たちが協調して作業するというネットワーク性、映像と音楽の編集能力を養うという狙い。私とドイツが推した。
 米英が「品質とテクノロジー」を説き、独日が「クリエイティビティーと美」だという、風変わりながっぷり四つ。米英が優勢だったが、ダンス編集が稚拙ながらも旧来の秩序をひっくり返そうとしているパンク精神を漂わせていたので、ここでひるんでは元パンク野郎の名折れとばかり、自分でも何しゃべってんだかわからん英語で粘って粘って二日目、アメリカが折れ、ひっくり返った。激論はこうして3日つづいた。
 久しぶりに欧州電気通信標準化機構(ETSI)のあるソフィアアンティポリスや、山の上の香水の町グラースを訪れたいと思ったが、白熱し、抜けられなかった。
 限られた時間の中で展示会場を回った。300社の出展のうち、アート系CD-ROM、教育・子供用ソフト、ゲーム、ネットワーク系がそれぞれ1/4程度を占めている。元々MILIAはCD-ROM作品が中心だったが、ゲーム部門が成長してきて、そして今年はやはりオンラインものが大きくなったということだ。ドットコムのつく会社の出店が多い。MILIA大賞でもeコマース部門とインタラクティブテレビ部門が新設されていた。DVDの賞が設定されたのも今回のトピックだ。
 会場では、ゲームは日本が目立ち、eコマースはアメリカが目立つ。ところが作品の中味としては、私はアートや教育の欧州作品に圧倒された。ゲーム展では映像美に立ちすくむということはほとんど全くないが、ここではグラフィックスや色使いにオオオーっと声が出てしまうものがある。子供向けPCソフトが充実しているのもうならせる。あなどれないぞヨーロッパ。こういう場所で日本のプレゼンスが低いのが日本らしくてやるせない。デジタローグの江並さんが独り気を吐いている。
 やっと審査を終え、授賞式のための着替えにホテルへ戻ると、神戸大学の草原先生からメールが入っている。教え子が出展しているので見てやってくれとのこと。うむそういえば、タレント・パビリオンという才能を発掘するコーナーに日本人らしき若者がいたな。そうか、日本から一人で作品かかえてチャレンジしに来てたんだな。すぐ会場にとって返し、エラい、とほめた。私にはそれしかできないので。
 新しい才能を掘り出すことは大切だ。コンテントを充実させる方策となると、まずは補助金あげるといった支援措置の話になる。絵画にしろオペラにしろ、芸術は貴族やパトロンの庇護で支えられてきた面が大きい。日本もタニマチ筋が文化を支えてきた。いまフランスは国家がその役割を引き受けている。
 一方、カウンターカルチャーは抑圧から生まれる。ジャズもロックもマンガもそうだ、貧困や格差や社会の閉塞が血をたぎらせ、アーティストが累々と餓死する中で表現が爆発してきた。いや文化たるもの生まれるときはみなそうだったのかもしれない。ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ルネサンスだってボルジア家の圧制が生んだ、とオーソン・ウェルズが言っている。支援は、できあがったものを続けるにはよいが、生むときには血を薄め逆効果になることもある。
 どうすればデジタルの表現が爆発していくのか。法則らしきものがあればありがたいのだが、まだわからない。だからひとまずチャンネルを開けて、描いたり、鳴らしたり、叫んだりできる場所だけは確保しておきたい。タレント発掘コーナーもその一つだが、インターネット空間をアーティストがジャブジャブに使えるようにしておくことが最重要の課題だろう。
 恒例のゴージャスな授賞式は、映画祭と同じ大ホールで行われた。テレビや雑誌のカメラフラッシュの中、羽織ハカマでステージに上がってプレゼンテーターをしていたら、ある審査員がニンジャ、ニンジャと呼ぶから、どついたろかと思い、このファッションはドアホと言うとキッチリ教えてやったので、こんど着物姿の日本人を見たらヤツはドアホと呼んで、そいつにどつかれるだろう。
 新しい表現を開拓するのは、はみだし者の役目だ。はみだすためには出口が要る。しかしどうも日本は出口がふさがっている。出入口があいまいになっていると言うのが正確かな。アウトローになりにくくなっているのだ。むかしならバイクに乗ったりエレキひいたりすれば立派な不良だったのだが、いまはゲーセン通いなんてのは目的意識を持った若者などと言われる始末。たいていのイケナイことはその瞬間に社会に受容されてしまい、どんよりした共同体に取り込まれる。規範の軸がなくなっているからだろう。
 いやんなったら出ていける安心感というのは大切なのだが、それがない社会、許容される社会というのは、自由なようでけっこう窮屈なのかもしれない。出ていけないで、中でキレて壊れちゃう。インターネットはその出口として、表現の解放区として機能すべきだ。
 この点、インターネットはまだこれからだ。商売の道具としては注目されているが、表現の手段としては未開拓だ。mp3のようにコンテントを流通させる手段として便利というのは商売の話であって、表現内容とは関係ない。まだインターネットを道路としてしか使えておらず、集まって新しい表現を生み出す広場とはなっていない。インターネットでしかできないアートはいつ出てくるだろう。
 式典を終え、ステージ裏の出口を抜けた。シャンパンが並んでいた。審査員、事務局一同、一気にべろんべろん状態である。いちばん大切なのはクリエイティビティだ。スピードや画質なんてどうでもいい。燃えたぎる表現スピリットを見せろ。などと、べろんべろん状態である。
 先日のこと。メディアラボで、トイストーリー2がとうとうデジタルのテクノロジーと表現とを結合させた、という話をしていたら、レスニック教授「トイストーリー1では、主人公のクリーンな部屋より、近所の悪ガキがおどろおどろしいロボットや奇妙なぬいぐるみ作ってて、そっちの方がよっぽど創造力があって、その部屋ばかり見ていたかったんだが。」そうだね。
 日本のクリエイティビティにとっての障害は何だろう。受験戦争と画一教育かな。その元凶のトップに位置する東京大学の先生方が同じころMITに来てプレゼンなさった。蓮見総長はじめ錚々たる教授陣。迎えるはチャールズ・ベスト学長、利根川進教授、マービン・ミンスキー教授ら。河口洋一郎さんのCGと安藤忠雄さんの建築物のプレゼンは、クリエイティブな美でいっぱい。夕食会にて、河口・安藤両師匠に、先生方のようなイロモノ揃える東大もパンクですねえと言ったら、お前にイロモノ言われとうないわ、と、おほめ頂いた。
 この酔いがさめるころ、ようやく青の暴力を浴びる気分になれる朝、地中海を出て大西洋を渡り、アメリカに戻る。デジタルはいよいよ面白くなる。そんな確信を胸に。
 20年以上まえ、桂枝雀が、いやまだ桂小米の頃だったか、誰の落語が一番すきですかと聞かれ、自分の高座をテレビで見んのがおもろうておもろうてホンマに一番おもろうて涙でまんねん、ということを真面目に語っていた。私も15年ほど前バンドをやっていたころ、自分でそれを本当に繰り返し聴きたいと思うかどうか、の感覚のみを頼りにしていた。今もいちばん聴きたいレコードは、誰のものでもない、そのころ自分で作った作品だ。コンテント作りで大切なのは、オーディエンスとしての自分を信じることだと思う。自分の作品が世界でいちばんスキ、そう思ってないアーティストは信用できない。
 光は見えている。ドットコム系が旧来の商慣習を打破する姿は、若い層に勇気を与えている。ビジネスパンクだ。日本でもチャレンジングな人が増えているようだから、敗れ去っていくことを覚悟してどんどんやってくれい、でも海の向こうの先進のものを翻訳して日本でもやってみる、ばかりじゃ困るよ、それはパンクとは対極の、和製フォーク、だもんね。ビジネスでも、アートでも、ゲームでも、お笑いでも、何でもいい、新ジャンルを開くような、パンクなこと、頼むよ。
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