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中村伊知哉のボストン一夜漬け通信  98.2- 月刊ニューメディア
第15話  2000年4月号
■乗り遅れないはもう遅い

 満天の星というのは小学生以来のことでした。さっきまで山肌のカーテンをピンクとオレンジと薄紫に彩っていた夕陽がいなくなり、頬を殴りつける風、零下30度、吐く息がそのとたん綿菓子のように固まって、しんしん粉雪が下りてくる、その明るい闇の向こうに綿菓子が立ち昇っていきます。
 ブレトンウッズという村です。ボストンから2時間の山奥です。築100年の木造ホテル。1944年、こっちがヒイヒイ言ってる頃、米英の呼びかけで44か国700人の代表がカンヅメになって、金1オンス35ドルだとか、世銀の創設とか、IMFガイドラインといった二次大戦後の金融秩序を決め込んでいった会議の場所です。
 いまではそんな力技はムリですね。第一どんな僻地に詰め込んだって、本国とも同僚とも敵国ともネットワークでスコスコに通じ合える。逆に衆人環視された集団というのは、裁量でバシッと決め込むとか、適当なところで妥協するとか、そういうことがやりにくい。つながるってのは、合意を形成しやすくすることもあれば、みんなが政治的にがんばるあまり帰結が極端へと流れることもある。善し悪しではない。デジタルとはそういうものです。
 日本の金融行政は、ブレーキの踏み方を加減する、という仕事しかしてこなかったように見えます。15年ほど前から、この金融商品を解禁するというリーク記事が五月雨のように紙面を飾ってきました。ボチボチ行われる規制緩和をみるたび私は、巨大な岩山を少しずつ削り取っていくさまを想像していました。波打ち際に作った砂山の上に棒をたてて、順番に砂をかいていく。棒を倒したら負け。のんびりと、そんな遊びをしていた。すると大きな波が海の向こうからやってきた。あわてて砂をザクッと削ったら大波とともに旗が倒れてボクの負け。
 問題は、砂を削った後の世界をどうするか、その想像力に欠けていたことでしょう。たしかに私の携わっていたメディア行政も、ここ15年ほどの中心課題はブレーキとアクセルの加減でした。ブレーキに目をつむり、アクセルをどう踏み込むか。銀行証券の行政に比べ当局が失う資産もなかったので、ほぼ一直線にアクセルを踏めばよかった。政治的に許される最高速度で規制緩和してきたのです。でも、同時に気を配ったのは、ハンドルさばきです。どういう速さで進むか、という問いと並んで、どっちに進むのか、ということ。行き着く先はどこか。そう、ビジョンというやつです。
 メディアのビジョンが正しかったかどうかは別にして、その見通しを国ぜんたいで共有しようとすることが行政の中心課題であったことは確かです。どういうサービスがいつどのように国民に確保されるのか。どのようなモデルの社会をめざすのか。世界市場の中で日本のプレーヤーがどういう役割を担うのか。これに対し、不幸にして金融では、そんな話は聞きませんでした。業界というドメスティックな奥の院をどう制御するかが行政の関心だったのでしょう。
  
 それは政治のなせるわざです。とどのつまり国民に対して責任を負うのは政治ですから。でも、ここに至ってなおペイオフの解禁もできない国であることを考えれば、ここに至る体たらくも納得。政治が悪い、と申したいのではありません。定義として、政治が悪い、というのはあり得ない。政治は国民が選ぶものですから。政治二流というのは国民二流と同義です。そんな傲慢なことは申しません。アメリカ人じゃあるまいし。日本の場合、政治が悪いんじゃなくて、政治が弱い、ということだと思います。
 この点、アメリカは政治が強い。強くてうんざりだ。世間がどう思おうと、CTBT批准まで否決してしまいやがる。きっとそのうち、ヤード法とかポンド法とか、アメリカの尺貫法も押しつけてきまっせ。人道問題とか言って。アメリカでなければ国にあらず。世間というのはアメリカのことなのだ。これに対抗できる国はインターネットのみですね。バーチャルのコミュニティだけがタメ張れる。
   
 アメリカの強気は株価が支えてます。投信の商品がハイテクに偏っていたり、ナスダック時価総額の1/3をマイクロソフト、インテル、シスコが占めるといった話を聞いたりすると、いびつな感じは否めません。こんどの大統領選はいかにIT株価をしぼませないかという観点からの人気投票になります。21世紀の幕開けとしては、文明論や国家論もなく、ちょっとショボい。が、日本もその方法を勉強して、間接金融から直接金融へのシフトが進んでいますね。
 日本では証券業務に20年も新規参入がなかったという話を聞き、改めてゾッとしましたが、そう考えればマザーズやナスダックができるというのは、天地がひっくり返るような話。市場というのは、存在するものから作るものへと位置を変えました。発想がひっくり返るのは爽快ですね。何でもアリ、の土俵に立てるから。
 サイバー店は無数にある。だからネット商品の値段を比較するサイトもある。客は瞬間的に安い店に流れる。毎秒、毎秒、店ができて、値段がついていく。比較サイトもいくつもあって、今度はそれらを比較するサイトが現れる。さらにそれらを比較する。さらにそれらを比較する。さらにそれらを比較する。
  
 上向きにも下向きにも永遠に増殖していく、ふくらむ、ふくらむ、そんな空想をしていたら、タイムワーナーとAOLの報。何でもアリ、ですか。アメリカは、AT&T-CATV陣営と、AOL-電話会社陣営に大きく二分していくなあと思っていたのに。AT&T陣営の川下に位置するタイムワーナーと、もう一方の川上のAOLがくっついたら、ぜーんぶがループして一本になっちゃうじゃないですか。永久運動じゃないですか。
 自民党と社会党が一緒に政権を担うような、常識では考えられないことが臆面もなく起こります。この動きに誰がついて行けるのか。バスに乗り遅れるな。と、よく言いますが、そこにはバスなんかありません。一人乗りのロケットがあるだけ。態勢を底からザックリ変えるヤツが一人で果実をぜんぶ取っていく。乗り遅れるな、という声が出たときにはもうすっかり終わっている。バスですよ、ってな誘いがあっても、乗り込んだら火を放たれそうだ。
  
 思考をリセットしましょう。何でもアリな時には。イマジネーションを絞り出すしかない。幸い、いまITというのは免罪符になってますから、ナニ言ったって許されるわけですし。ただ、私としては、ようやく来たなあと実感することがいくつかあります。80年代の終わりから90年代のはじめにかけて申し上げていたことが、10年たってやっと来た、という感じ。
 その一つが情報家電です。オンライン人口の成長率が低下しはじめたアメリカでは、コンピュータ会社もソフトメーカもドットコム系も、ポストPCに熱い視線を向けています。日本でも、日本の強みはこっちという意見が定着したようです。
   
 だからそう言ってたでしょ。10年も。PC-有線系より、テレビ-ケータイの電波系に資金や人材やコンテントを傾斜した方が日本は差別化しやすいって。PCと家電のロットの差は、そもそもケタが違うし、さらにハード・ソフトの競争力を考えれば、PCに一点集中すること自体、不自然だった気がします。それはアメリカ教の前にいとも簡単に雲散するような観察かもしれません。でも、ユーザやオーディエンスのハマリ度、使い込み度から見れば、ニッポン人をテレビ-ケータイ族と断定して行動してきても的外れではなかったでしょう。
 そんな具合に思ってきたのは、私が技術屋でなく、単なるコンテント好き人間だからかもしれません。コンテントからメディアを見つめれば、テレビ寄りのイマジネーションが勝つのは当然で、不公平なのかもしれません。でも、でも、アメリカ教にタメ張れる情報社会モデルを想像しようすると、その魅惑にかられてしまうと、そういう根性をイマジネーションに込めたくなるんです。
   
 オモチャですが、バンダイのビデオカメラやトミーの携帯電話なんて、オモチャであるがゆえに、文化の底力と明るい未来を直感させてくれますけどねえ。ずっとケータイは使い捨てになるって思っていたんですが、現実としてそれが見えてきたこのごろ、そのチープさがかえってスマートでエレガントなイメージを世界に示しています。
 そしてその次、ユビキタス。PCや家電はおろか、身の回りのもの全てがネットワーク化された世界、PCも家電も超えて、お互いに溶け込んで、現れる、何でもアリ、のイマジネーションを広げるチャンスです。それはPCもまた使い捨てになる時代の到来です。人をつなごうとしている限り、人の数がほぼ普及の上限値になりますが、鉛筆から旅客機までつないでいくということになれば、テリトリーが無限に広がって、もうけ話の空想も爆発しそうです。
   
 やっと来たもう一つ、それは世代交代です。サイバー社会の秩序も混沌も、ネットワークの表現様式も、デジタル世代が開拓します。生まれたときからデジタルにつながっている世代、つまり今のティーンエイジャー以降です。それ以前は退場。あらがっても、そうなる。
 来ましたねえ。十代で、新モデルのビジネスを起こしたり、新しいデジタル作品を発表したりする連中が出てきました。このトレンドはアメリカが先行してますが、間違いなく日本にも来ます。ニキビ面の億万長者が続々と出てきますね。
 ただしこれは私は恐怖心から申し上げてきたことです。上からは経験や実績で押さえ込まれ、下からはデジタルに突き上げられ、すなわち、私は用ナシということで、すっとばされる気配。来ましたねえ。現実に。ああ怖い。
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