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中村伊知哉のボストン一夜漬け通信  98.2- 月刊ニューメディア
第14話  2000年3月号
■少年よデジタルを抱け

  メディアラボのイベントを訪れる日本の面々は、一見してよその国の方々と明白に違う。ほぼ全員がビデオカメラを持っている点だ。外国人というか、日本人でない人たちは、ペンかPCである。彼らが肉眼でモノを見ているのに対し、日本の企業人はメイドイン・ジャパンのファインダーを通してモノを見る。はて面妖な、とアメリカ人はいぶかしげである。
 たしかに自分の目で見、自分の言葉で考え、上司に報告する方が正統かもしれぬ。文字でメモを取るより映像で記録する方が進んでいるとは思わぬ。アメリカ人にとってビデオ撮影など、自ら考えて評価する努力を放棄しているやに映るのかもしれぬ。
 だが、映像を撮るというのは今やもう文字でメモを取る感覚に近い。そこで肝心なのは、文字であれ映像であれ、自分の言葉で考えるか否かだ。そう、映像の内容を自ら評価し、自分のパソコンで編集し、ビデオのメモとして清書する。個人の着眼、個人の文体、個人の筆跡が如実に現れる。
 清書する前、記録をとどめる段階でも、考える努力は必要だ。文字はできごとを頭の中でこなしてから書くが、撮影はその場その瞬間に内容を判断して時空間を切り取る行為である。いかなる備忘メモであれ文字は事後的に表すが、ビデオはこれから起きることを事前に予測しつつRECスイッチをオンする。チャンスを逃したらアウトというリスクを負いながら。
 私を含め、文字で表す訓練を学校で積んできた世代には映像で表す訓練が足りない。求められる能力が違うのだから、どちらの訓練も要る。日本の企業人は現にこうして自らその研鑽を積んでいるのだ。エライ。
   
 片手にデジカメをしのばせ、時空間を切り取り、編集する。次世代の携帯電話は、それを伝達し、表現する手段になる。5年もすれば、ケータイとAV装置のセットは、テレビ局の中継車の機能になるとの話も聞く。いよいよ個人がテレビ局を携帯するようになる。イナセだ。PCと違いフリーズしたりクラッシュしたりしそうにないからのう。
 それは日本がリードしていく分野である。技術や製品づくりだけではない。リードすべきは、編集する能力、表現する能力。そう、使いこなす力、である。利用する人々のパワーが文化をつくり、それが技術や製品の方向性を決める。
 アメリカでもようやくインターネットにつながるケータイが宣伝されるようになった。モバイルでメール、などと鬼のクビを取ったような誇らしさでCMしておるぞ。数年前の日本を見るようじゃ。ほほほ。けなげじゃの。
 世界のケータイ文化はいまジャパニーズが引っ張っている。それも、ガキどもが。でかした。右手の親指ひとつでメールを送り、ウェブをサーフしまくるガングロ系の領域に達するには、アメリカ人にもかなり修練を積んでもらわねばなるまい。ついて来られるかの。耐えられるのはせいぜいビジネスマンまでだろう。そう、ガングロは、日本女性として、紫式部以来1000年ぶりに世界文化をリードしているのだ。この層の厳しい選球眼のおかげでカッコイイ製品ができる、ということだ。貴方のリードで島田も揺れる。味わい深いことだ。
 少年少女よ、デジタルを持って歩け。日本はモバイル伝説を10年おきに打ち立ててきた。79年のウォークマン、89年のゲームボーイ、99年のiモード。なるほど一般には99年はeコマースの年であった。バーチャル空間が人々に認知された。リアルな空間をビットに置き換えるのが情報通信革命だ。それは着実に進行している。一方、新たなモバイル伝説は、サイバーなビットをリアル空間に持ち込む逆向きの運動が同時にやってきていることを示している。
 ビットを持て。ビットを触れ。結局ヒトはバーチャルだけでは飽きたらず、持ったり所有したりできるリアルなモノに愛情を向けるに違いない。ソニーのAIBO、レゴのマインドストーム、ハスブロのファービーがウケているのも、本質的な方向を反映している。
 手のひらにPCを。ケータイとコンピュータは合体する。アメリカでは、PCにケータイの機能を持たせようとするだろう。だが日本では、ケータイがPCを取り込むことになる。コンピュータは小さくなってバラバラになる。手のひらに、服の中に、メガネの中に、クルマに、家具に、オモチャに、埋め込まれていく。
 90年代、いろんな機能を統合して、マルチメディアなるものを作った。パソコンもテレビも電話もできるマルチな箱であった。90年代が終わり、マルチメディアが終わる。そう、マルチメディアを解体して、バラバラになった単機能の機械をばらまこうというのだ。マルチメディアの逆である。ああ無常。
 だが、バラバラにしても、機能は上げねばならぬ。一匹のアリは単純な機能しか持たぬが、集まってつながると、高度で複雑な社会機能をなす(MITミッチェル・レズニック教授)。身の回りに溶け込んだバラバラのコンピュータがいつもネットワークでつながっていることで、全体のパフォーマンスを上げようということだ。マルチメディアの解体というより、分散したマルチメディア、というのが正しいか。
 ウェアラブルコンピュータでディスプレイはメガネと一体化する。ハードディスクとメモリはポケットに収まる。キーボードは手のひらに。いや、手ブラだな。声や視線や表情をメガネが読み取ってくれる。ジェスチャーや筋肉の動きや心拍や発汗を服のセンサーが読み取り、感情を理解する。飲み込んだり、体内に埋め込んだりしたセンサーが体調も把握してくれよう。
 そういうデバイスがみなインターネットで連結する。ヒトやモノが常にオンラインで通じ合っていて、サイバー空間を共有しながら、リアルな空間を生きる。コンピュータは姿を隠し、ユビキタスに溶け込み、空気となる。世界中のデバイスがつながり、一つの巨大なマルチメディアの惑星が誕生する。そこには、無数のサイバー空間が息づくことになる。
 小さくして、バラバラにして、つなぐ。簡単なことだ。それだけなら。そういうモノを作ればよいのならニッポンがすぐ片づけて進ぜよう。しかし問題はずっと深いところにある。デジタルが人間と同居できるような方向に進むか否かということだ。まず技術の進路を根本的に見直さねばなるまい。
 常にスイッチオン状態でヒトをサポートするためには、コンピュータが私の趣味や性癖をきちんと理解し、まともなエージェント機能を果たすようになることが大切である。しかしコンピュータはヒトを理解したり、自ら考えたりすることが苦手のままだ。コンピュータはこの30年間に1億倍も速くなったくせにちっとも賢くなっとらん(MITマービン・ミンスキー教授)。ヒトを理解させる方向に技術開発の資源を振り向ける必要がある。
 まして大切なのは、そんなベンリ一辺倒の世界を楽しく彩れるか否かだ。おもしろおかしくデジタルを手なずけることができるかどうか。技術が進んだせいで、スピードに追いまくられ、前のめりに生きるなどという姿はもう醜悪の限界に来た。理性や感情を思うまま発揮できるようメディアを制御しなければならぬ。つまり問題は技術よりも活用術や表現力にある。美意識や生きざま、と言ってもよい。拙者そのような技術いり申さぬ、ってハッキリ言えるようにしないと、怖い。
 アメリカではドットコム系が花盛りである。サイバー企業が景気を支えているという。だが、ここでもリアルとの格闘が始まっている。これまでのインターネット系ビジネスの多くは、店舗や窓口をインターネットに置いたというものだ。お客さまとのインタフェースをビット化したものにすぎない。ところが本格的なビジネスは、その後方にある。受発注を処理する。物流を管理する。在庫を調整する。会計を処理する。そういう厄介なリアルの分野が長期的な富の源泉なのだ。
 いまドットコム系の企業は、そのような実ビジネス分野を手当てするのに忙しい。倉庫を作ってみたり物流網を整備したりしているのだ。コンテントを配信したりポータルで客を囲い込んだりオークションの広場をショバ貸ししたりする事業は、サイバーならではの分野としてきちんと成立していくだろうが、リアルビジネスをインターネットに置き換える類の事業では、サイバー対応だけで生き残っていくのは至難となる。リアルの裏付けが欠かせない。
 さらに、これまで店を構えて商売してきた企業群が、そろそろサイバー窓口を本格稼働させようとしている。自動車、電気製品、化粧品、書籍、飲料水、鉄、各分野の老舗がネット化を完成させようとしている。後方の業務処理にぬかりのない重厚なシステムが、ドットコム系として参加してくる。サイバー系がリアル対応するのと、リアル系がサイバー対応するのとが、そろそろ拮抗する。恐ろしいことだ。
 
 日本のe コマースはリアル系とサイバー系が同時スタートであるから、本気でやればリアル系が勝つと思うのだが、どうもコトはそう単純ではないらしい。だいいち日本とアメリカではニーズのありかが全く違う。アメリカは、広い。店まで遠い。品揃えも少ない。コンビニもない。夜の独り歩きは怖い。だからもともと通販が盛ん。日本の場合は、家でPCクリックするより、路上のケータイでキャッシングするような異次元の姿の方がイメージしやすい。アメリカをマネしてもダメっぽい反面、誰にでもチャンスがあるっぽい。
 「富のピラミッド」を著したレスター・サロー教授と食事した際、とりあえずニッポンは何をすべきか考えを問うた。ベンチャー育成や金融再編といったおざなりの答えなら反論すべく身構えたが、口から出たのは以外にも「通信料金の定額制」と「教育改革」であった。コミュニケーションや表現をカネや時間を気にせずにできるようにすること。そして子供のクリエイティビティを高めるようにすること。うむ、それが日本の長所を伸ばすキモである。おぬし、賢いのう。
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