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中村伊知哉のボストン一夜漬け通信  98.2- 月刊ニューメディア
第四話  99年3月号
■大人はつらいよ

 ワシントンの場末の食堂です。
 デジタルテレビの会議にのこのこやって来たんですが、11月からサービスが始まったというけど、サイマルばっかりで目新しいものはないし、HDTVなのかデータサービスなのかみんな方向性をさぐりあぐねてるし、つまんないから、50万円とか100万円とかいう受像機を探して町をブラブラしてみたんですが、どこにも売ってないぞ。
 この町は、建物もでかいし、道も広い。ジャガーなんかが走ってると小型車に見えて、高級感に欠けて見えます。いや、ここで高級感というのはヘンだな。大きいから高級なんて、アメリカ的な感覚に毒されつつあるのかな。いずれにしても、こう何もかもでかいと、びよーんと開放されている感じで、イマジネーションというものが湧きません。コンテントの元になる想像力ってものは、あるていど抑圧や抑制ってものがないと。
 人もでかくって。まあ、でかい人ってのは、それだけで価値がありますが、特にでかい黒人はかっこいいから、そういう黒人ばっかり集まってる食堂をみつけてフラフラ入ってみたんです。汚い店。で、でかいおばさんが何にするというから、何かヘルシーなもの、って頼んだら、油とケチャップと肉のかたまりをてんこ盛りにして、甘いパン乗せて持ってきやがった。そうだよね、ふつうカロリーあるのが健康的なんだよな。だけどなぜパンを甘くしちまうのかね君達。オレたちはメシに砂糖かけないよ、イタリア野郎だってパスタにシロップかけないよ、子供だったら別だけど。
 ヘイ・ボーイどこから来た、とか、ヘイ・ベイビーいくつだい、とか聞いてやがる。ボーイとは誰のことだいベイビーとは何事か。子供だと思ってんのか?なめんなよオレは日本から来たんだぜなめると金融危機おこしてやるぞ、とか、オレは子持ちなんだゼ鼻毛にしらがも生えてきた、とか、そう言ってやろうとしたんだが、伝わったんだかどうだか、ゲラゲラ笑ってやがる。くそう笑い顔がかっこいいなあ。
 ボーイズもガールズも大志を抱くこの国は、子供を大切にする国です。ワシントンの国立アメリカ歴史博物館には、子供と科学とメディア史のコーナーがあって、そうだねこの国はこれで成り立っているんだねって感じ。
 ボストンには、子供博物館があります。その中に東京のコーナーがあるんです。銀座線のアナウンスが流れる場所に自動販売機が置いてある。確かに自動販売機というのは日本の風物ですな。そして、マンガの読み方とかこれがアニメだなんてコーナーがある。うむ正しい東京の解釈だ。
 いや、言いたいのは、子供が主役だということだ。情報社会が子供の時代になるということだ。これからの子供は、生まれた時からサイバー社会にいる人たちなわけだ。サイバー社会での作法やコツは彼らに教えてもらうしかない。デジタル表現を開発していくのも子供だ。新しい表現は、いつもキッズが爆発させてきた。映画もロックもマンガもゲームも、表現として開拓したのは、大御所じゃなくて、新人の天才たちだった。ネットワークでのインタラクティブな映像表現は、彼らに教えてもらうしかない。
 つまり、情報社会とは、大人が子供を手のひらの上で見守るという時代ではない。逆だ。大人は子供に立場を脅かされることを覚悟しなければならない。それでも大人は子供をいつくしまなければならない。食べられるのを知っててメスにご奉仕するオスのカマキリみたいなもんですかな。たとえがヘンか?そういや小学生のころ、セミの羽むしって並べて、先っちょにライターつけた注射器からアルコール飛ばす火炎放射器つくって、バルタン星人の最期とかいって焼いてたこと思い出した。子供は残酷だなあ。
 メディアラボなんて場所に住んでますとね、キッズの波をひしひしと感じるんです。ウェアラブルコンピュータを身につけてUNIXマシンを足であやつりながらJAVAでゲームソフト書いてるような若い学生さんに、ウィンドウズのワープロが動かなくなったんですけど見てもらえませんでしょうか、って頼む恥ずかしさ!
 大人に残されているのは、アナログしかできないことをほじくりかえすことかもしれませんね。CDが出たあとにアナログレコードのターンテーブルを回すラップの文化が生まれましたけど、アナログの映像にできて、デジタルの映像にはできないアコースティックなカウンターカルチャーって何かないですかね。あったら教えて。
 カウンターカルチャーの街サンフランシスコにマルチメディアガウチと呼ばれる地帯があって、コンテントやアプリケーション系の若い衆がベンチャーしてます。一世を風靡したシリコンバレーは、もはやステイタスっぽくなっていますが、どっちかというとハードウェア系ですから、今はもうガウチのキッズ連中がシリコンバレーを牽引するような動きを見せてます。
 東海岸でも、ニューヨークのシリコンアレーと呼ばれる地帯にネットワーク系のベンチャーがごろごろしてます。ボストン近辺でもMITの卒業生らが作った小企業が明日は何しようかと企んでいて、セガのドリームキャスト用にソフトを開発させてくれなんて話を私のところに毎日のように持ち込んできます。
 彼らを見ていると、ロックバンドのノリなんですよ。技術と、ビジネスと、エンタテイメントをバックグラウンドにした3人か4人が集まって、やりたいことを始めちゃうんです。いい音が出なかったら、メンバーを代えたり、あるいはバンドを解散したりする。趣味が同じトッププレイヤーが揃えば、いい音が出ますからね。失敗しても、プレイヤーとしての自信があれば、別のバンドを渡り歩いて何とか食える気がするし、だいいち楽しい。大オーケストラに入る気にはならない。
 日本でベンチャーが発達しないのは、官庁・大企業をヒエラルキーのトップに据える価値観だとか、失敗が許されない風土だとか、金融システムの不備だとか、多様性を押し殺す教育だとか、あれこれ言われますが、今いろんなことが崩れている最中ですから、たぶん日本のキッズも変わっていきますよ。心配ないですよ。日本にもバンドやってる子たくさんいますから、そのノリで起業してく子がたくさん出てきますよ。
 ただ、できることなら、今のうちに思いきり教育や社会の仕組みを変えたいところです。これから映像情報社会がやってくるんですが、日本にとってはチャンスなんですよね。だって、日本の子供はまちがいなく世界の最先端ですから。マンガを読んだり描いたり、ゲームを遊びこんだりする能力は抜きんでてます。あちこちの国でゲーセン行って見比べればわかりますよ。デジタル映像の審美眼と言いましょうか。いま日本が持っている資産って、それしかないと思いません?それを世界に発揮できるようにしてやりたいところです。
 これから大川センターを作るということを以前申し上げました。大川センターったって、ハッピ着た番頭が駅までマイクロバスで迎えにきて大浴場にお通しする健康ランドとは違います。MITですから。子供とメディアの研究機関です。世界の子供たちのために、アメリカに作るのですが、私はそこでの研究の成果を日本に応用したいという気持ちよりも、逆に日本の子供たちがそこを舞台に世界をリードしていってくれないものかという期待の方が強いんです。
 そうだベンチャーの話でした。ベンチャーっていうのは危ないってことですが、ホントの意味は、サラリーマンじゃないオーナー企業ってことです。かつてのオーナー企業がサラリーマン社長に世代交代してきてますが、これは日本にとって危ないことですね。
 これは経営判断のスピードだとかの企業行動だけじゃなくて、日本文化にとっての問題でもあります。お大尽が少なくなってるってことです。芸者あげて幇間よんで、関取にご祝儀つつんで舟遊びする、なんて美しいマネできる人いないじゃないですか。サラリーマンにできることっていえばせいぜい六本木の女にプラダ程度のバッグやって見返りのホテルからゴルフに通うこと、いやもうそんなこともできないなあ。
 グローコムの公文俊平所長が「2005年日本浮上」という本を出され、長期波動からみた再生のダイナミズムを分析しています。この元となった研究会に私も郵政省時代に名前を連ねていたんですが、2005年ごろに底を打つとみられる社会経済循環の次に来るのはもちろん情報社会です。2005年の日本はデジタルテレビの本格化を迎え、情報インフラが整う時期です。経済も教育も含めて構造改革をしておくべきですね。
 ところが大人たちはこれまで情報社会への移行をしっかり準備できず、情報化投資の意欲は今だに日本はアメリカに劣っているありさまです。日本は今やらなきゃいけないのに。ここはもう主役交代しかないですね。アメリカのベンチャー・キッズに共通するのは無邪気な自信ですが、日本の子供たちにも自信を持たせてやりたいものです。
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