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わからん、それが問題だ  96.11-98.10 マックパワー(連載終了)
第二十二話
マックユーザーは阪神ファンと同じだということに気がついた。   98年8月号
 祇園で飲んでいる。ニシン、茄子、湯葉に冷や酒。数年ぶりに立ち寄ったふるさとは、東京の1/3ぐらいの料金で、高級な思いをさせてくれる。
 でも少し後ろめたい。禁酒の最中だからである。人間ドックでダメな値が出たからである。初めての人間ドックは、上から下からチューブを体に入れるので、気持ち悪いが、イベントとして楽しかったのである。ケツから体内に侵入したカメラがコンピュータとディスプレイにつながってて、サイバー人間ですな、内臓の映像がコンピュータを介して網膜に入り、私とコンピュータは映像のループを描いたのだった。
 問題はそれからである。禁酒は致し方ない。それより、痛いのである。ケツが、である。病院で、サイバーなオレなどとはしゃいでいたせいか、ケツが切れちゃって。男色家の方はこんな苦労をしておいでなのだ。私は人生経験が足りない。しみじみと、飲む。
 祇園に流れてくるまでは、北白川の瓜生山で薪能を見ていた。茂山千之丞さんの「鎌腹」に続いて火が入れられ、上空が少しずつ暮れなずむ。東山や北山が闇に姿を隠そうとするかたわら、眼下に広がる古都の灯が、ぽつりぽつりと浮かび上がってくる。
 観世栄夫さんの「恋重荷」の鼓が、ゆったりとした時間の流れに、ポンとアクセントをつける。実は京都は時間が不連続で、空間は静止画になっていて、ポンと鳴るたびに、場面が変わる。鼓が鳴らなければ、時間も空間も覚醒しない。まちのどこかでいつもポポポンポポンポンと鳴っているために、連続しているような気がするだけなのだ。
 
 クニちゃんやダイモンとこのあたりを走り回っていた頃から、何万回か鼓が鳴り、私は大人になった。私はあの頃の自分ではない。最大の違いは、今の自分はいつも寝不足で覚醒が足りないということである。今朝も3時まで働いて、新幹線で少し寝ただけだ。
 最近は行革の国会対応に時間を取られているのだが、つらいこととはいえ、大蔵省や日銀が、お食事券で、違う、汚職事件で、逮捕者や自殺者が出たりする昨今だから、一人の公僕として忸怩たるものがある。ジクジたるもの。どういう意味かは知りません。ノリと気合いで使う言葉の一つである。ジクジ。じくじくとカサカサは、水虫の場合、どっちかが軟膏でどっちかがチンキがいいはずなのだが、どっちだったろう。
 こういうくだらないことを考えてばかりいるから寝不足なのである。仕事のせいにしてはいけないのだ。ヒマな時には寝ればいいのに。先日も、アメリカに行く計画がおじゃんになって3日の休みができたのだが、だらだらして終わってしまった。正確に言えば、無意味な休みなので、無意味に過ごそう、おお、そうじゃ、と決め、でも何が無意味なのだろう、それを模索するうちに、3日が過ぎたのだった。
 まず安易にテレビをつけたのがよくない。漫然とNHKを見ていたら、「紅い花」の再放送が始まったのである。76年4月の番組である。鮮やかに覚えている。あの時。伏見にある高校に入ったばかりで、青い悩みにくすんでいた晩、このドラマに胸をずしんと打たれ、眠れず、翌朝、西友ストアーの書店に走り、つげ義春の原作を買い、その隣の暗い喫茶店で、どくん、どくん、と胸が鳴る、一つひとつのコマを読み、そう、どこかで鼓がポポポンポポンポンと鳴っていたに違いない、また最初から読み、どくん、どくん、ポポン、ポン、また読み、どくん、どくん、イヨーッ、ポン。私がマンガを読みふけるきっかけとなった番組である。意味があるのだ。油断していたら、意味が私を襲う。
 無意味は、自ら作り出さなければいけない。インタラクティブテレビがよかろう。ゲームやビデオ・オン・デマンドの類ではない。もっと積極的なインタラクティブである。テレビ番組と真剣に対話するのだ。番組は、メロドラマが好ましい。そして、登場人物と心を通わせ、「そうでんなあ」とか「ホンマ困ったことでんなあ」とか「ちぇっオレの気持ちも知らないで」とか「この野郎もいっぺん言ってみろ」とか声を出してブラウン管の向こうに語りかけるのである。
 これを女房子供のいる前でやっていると、当面はメロドラマと仲良しの哀しいオヤジに過ぎないが、継続は力なりであって、抜き差しならないほどにドラマと同化してしまうと、私とテレビの間には家族といえど入り込むことのできない腐敗した空間ができあがり、意味が発生するので、よい子は決してマネしないで下さい。
 その点、コンピュータはダメだ。ワープロにしろ、表計算にしろ、画像処理にしろ、こちらは内実をさらけ出して相手に与えるばかりである。CD-ROMにしても、こっちが指令を出して、その答えをもらうだけである。いちいち指図しなくても一方通行でエンタテイメントを与えてくれるコンテントもあるけど、たいていは襟を正して鑑賞させて頂く高尚なタイプで、こちとらレベルが低いから、対等に対話できるチープで安心な相手じゃないと同化できないんだよね。 つまりコンピュータは常に私の献身を求めているのだ。指示する親の役割か、黙って言うことを聞く子供の役割か、いつもどちらかの立場を求めているわけだ。それは、愛ではないぞ。テレビは私に何も求めない。愛がある。恋人とは言えないが、友達になりたいという姿勢は見える。
 愛といえば、ラブを集める「ムーン」というゲームを同僚の松本君から借りたことを思いだし、やってみると、とても有意義な作品だったため、ラブを集めるのはやめにして、一度眠るとおばあさんがクッキーを1個くれるので、寝てはクッキー、寝てはクッキーという行為をずっと繰り返し、無意味を蓄積していたら、飽きた。
 そこで街に出てみた。日本橋にポケモンセンタートウキョーというショップがある。入ってみた。ポケモンの殿堂であった。ポケモン信者の親子連れがグッズを買いあさっている。ポケモンいえるかなを最後までマスターした役人になるというのも無意味かなと思って、ピカチュウカイリュウヤドランピジョン・・・とつぶやいていたら、これはお経だと気づいた。私はポケモンを擁護するが、礼賛するわけでも信奉するわけでもないので、洗脳されないうちに逃げる。
 その近くのデパートの屋上に上がると、ラジコンカー競技会をやっていて、すぐ負けて、残念賞は鈴木アグリと書いてある絵はがきだ。その横でプレーステーション・ジャンケン大会というのをやっていて、おねえさんを相手にみんなでじゃんけんして、すぐ負けて、何もくれなかった。やっと無意味に巡り会えた。
 帰宅すると、X JAPANのhideさんが亡くなって、南麻布の自宅前にファンが集っているという。近所なので散歩がてら出かけたが、場所がわからないでいると、テニスコートの前に人だかりがある。これだ。何かを待っているようなので、そこに混じって、足下のアスファルトの割れ目からのぞく草をむしったりしていると、黒塗りのクルマがやってきて、止まった。人が降りてきて、手を振りながら、テニスコートにお入りになられた。天皇皇后両陛下だった。
 ポポンポン。京都に来たのは、薪能の会場がある京都造形芸術大学を訪れるためである。私はここの客員研究員でもあるのだ。そのメディア美学研究センターの武邑光裕所長が、マックの並ぶ明るい部屋で、あるインターネット・コミュニティの状況を教えてくれた。
 そのマック系のサイバースペースでは、個人どうしでソフトウェアが物々交換されているのだが、とんでもないことになっていて、これはコンテントやアプリケーションという情報財の商品価値や価格形成の概念を塗り替える可能性をはらんでいる。ネットワークは、情報の所有と利用の体系をつき崩すかもしれない。事態を整理しないと意味が把握できない事態である。
 うーむ。先日もある人から、サンフランシスコのガルチと呼ばれる一帯がコンテントやデザイン系でシリコンバレーやハリウッドを引っ張ってブレイクしている様子を聞いてびっくりしたが、ここんとこ世界はどうにも動きが速く、東京にいると何もわからなくなってしまう。
 このサイバースペースは、マックユーザの反乱とでもいうべきものだ。その気持ち、よくわかる。無意味な休日に、売れない本の企画でもしてみよう、ウィンドウズユーザーのためのマック入門・とうとう決断した貴方へ、なんてのは何冊ぐらい売れるだろう、と考えていたら、マックユーザーというのは阪神ファンと同じことだということに気がついた。ファンであることに理由なんかなくて、それは、女や男を好きになるのと同じことで、損得で考えてもキライになれないのだな。
 阪神ファンにとって阪神は、そこにあるということが大切なのだ。勝ったら誇らしくて、負けたら負けたでかわいいのだ。Bクラス続きで、ファンが減れば減るほど、オレこそが真のファンだと得意げなのだ。阪神でありさえすれば、選手がすべて巨人の選手と入れ替えになっても、阪神が好きなのだ。それはもう神に近いね。
 ポポンポン。武邑所長にお会いしたのは、京都に蓄積された文化資産をデジタル化するプロジェクトの状況をうかがうためである。それは日本の古代色や紋様をデータベース化し、世界発信するもので、そう文字で書くと平板だが、初期アウトプットとしてできあがってきた「色彩の遺伝子」というCD-ROMやオンライン・データベースは、衝撃のあまり私をまた静止画の世界に凍りつかせてしまった。いつまで眺めていても飽きない美の力。「21世紀は色の世紀だ」という武邑所長の静かな言葉が京都にたたずむ私にリアリティーを充填する。
 ポポンポン。突然、鼓が鳴って、世界が動画になって、気がついた。あれっ、これはインターネット経由の映像なんですか。いつも見ているきたないブラウザの映像と全然違いますな。うむむ。ポポン。リアルタイムでこんなにキレイな絵が動いてるんですか。そんなに細い回線で。ポポン。これはひょっとして。このまんま、デジタルテレビのコンテントに化けていくということですな。ポポポン。これって、すごい。こんな京都の山のふもとで、こんなことが。だからこそできるってわけですか。イヨーッ、ポン。
 祇園の夜は更けて、鴨川沿いのバーのカウンターに座っている。ハバナ産の葉巻にカルバドス。まちは無口になり、鼓の音が減ってきた。内と外の情景は、ふくよかな闇の中、とぎれとぎれにコマを変えるが、葉巻の火も消え、人通りもとだえ、映像が動かなくなってきた。そして私は、まだしみじみと飲んでいる。
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