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わからん、それが問題だ  96.11-98.10 マックパワー(連載終了)
第十一話
リアリティーを揺さぶるのはデジタルというテクニックじゃなくて、表現という魂だ
97年9月号
 今半のスキヤキと手焼きせんべいをがまんして、いもようかんもがまんしたが、あげまんじゅうの誘惑には勝てず、おいしい、ロック座と、フランス座と、小三治がトリを務める演芸場の脇を抜け、女房が新聞のおじさんにもらったチケットで入った映画館では、「ウルトラマンゼアス2」というCGギャグ作品をやっていて、国際防衛軍参謀役のとんねるずを内海桂子・好江師匠に替えればとてもいい映画になるのにと思ったが、ウルトラQのイッペイ君も出ていたり、ウルトラマンがガマクジラと闘ったときにスプーンで変身しようとしたシーンをなぞってみたり、ウルトラセブンとウルトラマンレオの関係を知らないと意味がわからないセリフでラストを締めたり、おいたが過ぎるぞ。って怒ってどうするオレは。
 「昭和残侠伝」を見た客が映画館を出るとみな健さんになっているように、ゼアスになってしまった息子たちを連れて歩く雨上がりの浅草は、東京のあっちの方からヤットコヤットコくりだしてきたオヤジ連中が赤ら顔でぐずぐずしていて、喧噪なのにのんびりしていて、パリの裏町やニースの旧市街やフィレンツェやローマやリスボンやブダペストやイスタンブールやアテネあたりの場末にいるのと同じ幸福に包まれ、そのとたん、ああこのわびしさはもう恋なのかという気になるが、それはかつて郵便局長をしていた登別の温泉街の風情とは違い、大都会の中でわざわざこんな所を選んで来なくてもいいだろう的な落ち目のスポットが与えてくれる連帯感というのか、要するにディープなのだが、大阪のもっとディープな通天閣あたりはNHK連ドラのせいでハイカラな都会っ子たちに汚されているらしく心配だ。ってもう8年も大阪に行ってないのに言う資格ないだろオレは。
 京都出身の私が大阪に憧憬を抱くのは、わが人格を形成したテレビのコンテントの多くが大阪発信だったせいで、例えば土曜日にガッコから帰ったらお笑いばっかり見てて、もう記憶が薄れ、間違いも多いだろうけど、勢いで書くと、昼メシ食いながらちゃっきり娘やフラワーショウや宮川左近ショーなんかが出る道頓堀アワー見て、殿様キングスもコントやってたころだ、そのCMは松前屋のえびすめ、とこわか、という名の塩昆布だった、終わってから、阪神の村山が風呂に入るダイヤモンドバスや十全練炭やみすず豆腐のCM、そのあと、新東洋・いろはという名の旅館の宣伝で吉本新喜劇があって、これはもう全人格を没入して見ていた、それに松竹新喜劇もあって、夢路いとし喜味こいしが今宮カッパエビスや浮世亭三吾十吾をしごく漫才番外地というコーナーのある番組を見て、そういえば大阪のお笑いさんの苗字は味がある、かつて「笑ってる場合ですよ」で西川のりおから「笑福亭」小朝さんと紹介されて春風亭小朝が複雑な表情をしていておかしかった、さてその間のCMは、食い物系だけでも、ヒロタのシュークリームやチロリアンやチロルチョコなどのお菓子だとか、蓬莱のぶたまんや北極のアイスキャンデーだとか、ドウトンやくいだおれや千日党やかに道楽といったメシ屋だとか、京阪牛乳やいかるが牛乳だとか、それから毎日ドリプシという飲料のCMで世界ビックリアワーとかいう番組になってそろそろ晩メシだ。幸せだったなあオレは。
 共同体というのはこういうローカルな情報で形成されるわけで、その情報形成や発信の自由度によって、経済活動の元気度も左右されるはずだが、例えばアジアの経済は急成長していて、大消費市場として注目されているけれども、生産の拠点となっていくかどうかは、その文化環境にもよるわけで、楽しくて規範性が緩くないと、各国から企業や人が集まってこないってことは、パリにしろ、ニューヨークにしろ同じことで、それになにしろアジアは暑いから、と言っても行ったことがないから知らないが、少なくとも今さらアジアの一員になりたい日本の汗というのは、体からしみ出てくるのではなくて、大気の方からまとわりついてくるものに違いなく、東京の夏、私が今さいなまれているこの汗は、日本のせいであって、私の肉体のせいにされては困る。いったい何を言ってるのかオレは。
 アジアのパワーは今、香港のウォン・カーウァイが例えば「天使の涙」でかつての日本映画ばりのノリとイキでもってスクリーンから伝えてくれるが、アジアの哀感は同じく95年、日本の正統SF「攻殻機動隊」の方がリアルに描いていて、これは心地よいリズムと色調と酸性雨とメカでポップを装いながら、ネットワークと意識と肉体とを解きほぐし、コピーと生殖と進化と記憶をたどり、アニメだけに許された無限の表現領域を自在に行き交うのだが、両者に共通しているのは銃撃シーンのかっこよさで、今いちばんかっこいいのはアジアの男だ、北野武「ソナチネ」でチャンバラトリオのカシラの銃撃シーンをシャンゼリゼの小屋で観たときからそう思うようになった、ゴダールの「カラビニエ」や「ウィークエンド」のかっこよさを超えたんじゃないか、アメリカの黒人の時代も終わったんじゃないか、アジアの人や風俗や空気をかっこいいものとして発信することは、産業パワーを発揮することよりもかっこいい。かっこよくありたいもんなオレも。
 この世で3番目に大切なのはスピードで、2番目に大切なのはタイミングで、1番大切なのはクリエイティビティで、そして日本には映像クリエイティビティがあふれていて、それは昔からそうだった、浮世絵が印象派やアールヌーボーを促し、それから明治の失政で近世文化が捨てられてもめげずに小津や溝口がゴダールを刺激し、手塚がディズニーを青くさせ、そしてマリオが世界の英雄になったように昔からずっとそうだった、今村監督の初期の頃と異なり現実社会にパワーがない日本はアニメでカンヌを取れということを私は以前書いたが、それを書店で見た当日に今村監督が現実社会を描いてカンヌを取ったので赤面した次第、まあいい、クリエイティビティ健在を世界に再認識させてくれたわけで、それよりも慶賀に堪えないのは河瀬直美監督が日本で初めて新人賞を取ってくれたことで、20台の女性だぜやったぜ、21世紀につながったぜ、パリのローランギャロス全仏オープンで混合ダブルスをインド人の男性と制した平木選手もエライぞ、カンヌの翌日、朝日新聞の服部桂さんのイベントでピーターバラカンさんらとパネルディスカッションした際に高城剛さんが言っていた、江戸時代はみんなでがんばらないという時代だった、そのあとみんなでがんばる時代になった、インターネット時代は個人の選択の時代だ。ホントだと思うオレも。
 同じく95年のマイケル・ラドフォード「イル・ポスティーノ」は郵便局員の話で、郵便配達人はイタリアの島でも美しい魂を宿すのか、美しい魂のみがメッセージを配達できるのか、チリから来た詩人に言葉を運ぶ主人公役のマッシモ・トロイージが撮影直後に死去したという逸話はこの作品を観る目に余分なフィルターをかけてしまう、それほど美しい、詩は他の言葉では言い表せないもの、感じるもの、と詩人は言った、この映画もそうだ、母国に帰った詩人に送るため、生まれてくる子の心音や島の星空を録音する郵便局員の魂の美しさは、他のメディアでは表現できまい、ちなみに郵便は神聖だと言ったのは郵便機の飛行士で星の王子さまの作者で50フラン札に肖像のあるサン・テグジュペリだ、郵便は神聖だ、日本の郵便局は明治が生んだ文化だが、それは日本の土着となり、日本の原風景となった。郵政省の回し者かオレは。
 言葉を映像に置き換えるのをイマジネーションといい、近頃の子は本を読まないから想像力がぁと親は言い、みんな昔はそんなに本を読んでいたのか疑問だがまあいい、映像を文字に置き換えたり、映像を映像に焼き直したり、映像を五感に転化したりするのもイマジネーションで、それだって大事な能力だ、21世紀の知識創造社会は、知識や情緒を原料として知識や情緒を生む社会だが、そこでは原料をみんながネットワークで接続し合い、爆発させ、そしてまた新しい原料を生んでいく、その起爆剤となるイマジネーションは、メディアの多様化に応じたバリエーションが必要で、それは親が心配しなくても子供は勝手に備えていく、連中は鍛えている、毎日鍛えている、スーパーマリオ64のスターがなかなか取れないのがくやしくて延べ何日もかかってやっと12個取った、仕事のせいでほとんど寝てないというのに愚かな話だ、すると長男の友人が来て2時間ばかりで8個も取って行った、勝てねえ、勝てねえ、「Dの食卓」も「エネミー・ゼロ」もまだ終わりまで行かない、「GADGET」でさえやっと昨日ラストまで行ったところだ、今さら何だがスンゲエ作品だ、でも連中はとうにクリアーしていて、それは連中の血となり肉となっているはずで、何かを生む準備を秘かに進めている。気づくのが遅いかなオレは。
 本に集中したいときには耳をふさいだりするが、読むためには視覚以外の感覚はじゃまなわけで、口も鼻も手足も体も要らない、目玉と脳みそだけになれば立派な読書ができるはず、逆にいえば本はヒトの能力をかなりムダに使っているメディアなのだが、じゃあバーチャルリアリティーとかいうやつが発達して、五感を総動員させて体験するメディアや体感まで領域にするメディアが現れたとして、本を上回る感動を与えてくれるかというとその保証はない、たった一つの言葉が千の映像よりも強烈なこともある、リアリティを揺さぶるのはデジタルというテクニックじゃなくて、表現という魂だから、どんなに技術が発達しようと、肝心なのは表現したいという火の玉の情念と、表現者の業の深さなのだ。だからメディアが面白いんだと思うオレは。
 映像から五感や体感へとテクノロジーが向かっても、それは進化にすぎず、結局どんなにメディアが発達したところで、表現したいことがらを文字や音や映像やニオイや触感に置き換える必要があって、うまく置き換えられて、全部伝えられたとしても、心に抱く気持ち、情といったものが、どこまで伝わるのかにはあいまいさが残る、うまく表現できないもやもやした気持ちというのは取り残されてしまう、指と指が触れ合えばデータが相手に流れるシステムの実験が公開されていたけど、それはスゴイことだけど、伝えたいデータがあってはじめて成立するシステムなわけで、それよりも、例えば静謐な茶室で掛け軸や器や花を媒介にして黙ったままの方が雅な二人は気持ちが通じ合うのかもしれない、つまり、そもそもヒトが言葉やメディアを欲した理由は気持ちや情を伝えたかったからなのに、近代テクノロジーがどこまで行っても気持ちや情はそのまんま伝えることにはならず、それはメディアの本意ではあるまい。メディアの未来を信じるぞオレは。
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