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わからん、それが問題だ  96.11-98.10 マックパワー(連載終了)
第八話  「トイ・ストーリー」は恐怖映画である   97年6月号
○モ東京からパリへ。
 自殺は、自分のために死ぬものだ。アントニオーニ「さすらい」のアルドは、愛を求めて身を投げた。ルコント「髪結いの亭主」のマチルドは、愛を切るために身を投げた。残されたアントワーヌは無表情にアラブ踊りするしかない。ルイ・マル「鬼火」のアランは、厭世の末に銃口を開いた。ゴダール「ピエロ・ルフ」のフェルディナンは、マリアンヌを撃ってから、頭にダイナマイトを巻いてぶざまに散った。永遠が残った。太陽と海。溝口「山椒太夫」のラストシーンをフランス映画が再構築した。
 日本人は他者のために死ぬ。厨子王丸を助けた安寿が沼に身を沈める場面は驚くほど淡泊だ。死んで身を引くという日本の徳は、この溝口の力量で普遍的な表現となった。ウルトラQの東京氷河期で、強盗は息子のためにペギラにセスナで体当たりした。ジャイアントロボは人類のためにギロチン帝王を伴って宇宙のもくずと消えた。ダイレンジャーのカミカゼ大将は友情のために身を捨てた。とても日本的だが、世界の子供もほろりとするに違いない。
 岩井俊二「PiCNiC」のココは、ツムジと永遠とを救うため、天使のように頭を撃った。太陽と海が残った。ゴダールを日本のテレビが再構築した。
  
●ヤパリから東京へ。
 フェリーニ「81/2」でマストロヤンニの鬼女房を演じたアヌーク・エメは、ルルーシュ「男と女」では色っぽい母親。最初に見たのはテレビだった。私は学生だった。ラストシーン、フランシス・レイのダバダバダをBGMに男女が抱き合う瞬間、リモコンを踏んじゃって、別のチャンネル、関西テレビ、南海・近鉄戦の中継、たしか実況はハンマープライスの杉本アナウンサー、に画面が切り替わってしまい、ほとんど客のいないデーゲーム、それもピッチャー交代後のウォーミングアップのだらだらした場面で、いよいよラストという高揚感は一瞬にしてしぼみ、あわててチャンネルを元に戻したが映画は終わってて、いままで生きてきた中でいちばんくやしい、濃厚なフランスの夢が突然そこで藤井寺の現実に戻されてしまったのだ。
 パリと大阪は似てるからいいじゃないか、エッフェル塔はパリの通天閣、セーヌは淀川、シテ島は中之島、もっとくやしくなってきた、だからパリに住むことにした。という訳ではないが、ダバダバダの舞台、ドービルは、フランスの北側、パリから数時間飛ばした海辺のリゾート。フランスの新潟。違うか。南海・近鉄戦でくやしい思いをしたちょうどそのころ、学校の地下室で浅田彰という先輩が、明石・姫路は日本のリビエラだと言うので、そうかなあとつぶやいていたことを思い出す。フランスのリゾートとしては、他に西のビアリッツと南のカンヌがある。ビアリッツは80年代半ば、光ファイバー国家整備都市として名を馳せたが、映画祭招致に勝ったカンヌの方が圧倒的に有名だ。日本はアニメでカンヌのグランプリを取れないかなあ。

○モ邦画に元気がない。これは日本の日常がとても描きにくくなっていることと無縁ではない。川島雄三「洲崎パラダイス赤信号」、今村昌平「にっぽん昆虫記」、大島渚「少年」、ぎらついた明確な日常があった日本、あのころ、都市は伸びゆくパワーを発散し、人は欲望をあらわにし、どの町も、どの顔も、カメラを向ければ絵になった。最近でも、岩井俊二「打ち上げ花火、下からみるか?横からみるか?」のように今の子供を見事にとらえたものもある。これは例外か?いや、これは元はテレビ番組だ。テレビは映画を救えるか。
 日本は世界市場でゲーム9割、アニメ7割のシェアを占めるという。産業としても表現としても、これから黄金期を迎えなければならない。ただ、アニメ表現は、かつての邦画のような現実のパワーを借りることができない。いわば、それがレゾン・デートルだ。「攻殻機動隊」がアニメの無限の可能性を日本の底力として世界に提示した。押井守監督がアニメ表現の開拓に心血を注ぐのは、開拓のしがいがあるからだろう。映画、マンガは100年かけて表現の業を深めてきた。まだまだアニメは血が薄い。
 そこに現れた「トイ・ストーリー」は、映画誕生101年目の奇跡だった。カメラからコンピュータへのシステム変更だ。しかも表現はハリウッド的な感性でみれば完璧。わざと残したCGっぽさの具合もほどよい。これは、産業のシステムや技術だけでなく、表現技法も、映像文法も、ストーリー展開も、アメリカが次世紀の審判となるぞというソフトな宣言なのだ。恐怖映画である。

●ヤそんなことより、仕事、大変なんだろ。NTTの再編成法案は仕上がったのか。今国会に郵政省は電気通信事業の需給調整廃止とか衛星デジタル放送の料金認可廃止とか、抜本的な規制緩和法案を5本も出したって聞いたけど、それで本当に競争が進むのかね。
 アメリカは他国にぬけぬけと規制緩和を迫るが、自国の参入条件は不透明だし、日本にない規制もある。そりゃまあフランスに比べれば規制は少ないだろうけど。WTOの基本電気通信交渉が2月に妥結したが、外資規制撤廃を約束する日本に対し、電波の外資規制を温存しようとするアメリカの姿勢は象徴的だったね。
 ただ、実態としてアメリカでは競争が進んでいることは事実だ。問題はそこだ。日本の場合、法規制がゼロでも競争が起こらないんじゃないか。日本政府はせっかく努力してるんだから、外国へも民間へも、もっとちゃんとプレゼンすべきだ。

○モおっしゃる通り。NTT問題も片づいて、日本市場は次のステージに移る。それに、ネットワークの姿も変わってくる。OCNがスタートし、ADSLも機運が高まってきた。映像インターネットが本格化するだろう。移動通信の普及も順調だし、アクセス回線の無線化も見えてきた。CATV電話も21社が参入しているし、衛星デジタル放送はもう100チャンネルだ。近いうちに、衛星テレビ局は月々50万円もあれば開設できるようになるだろう。衛星インターネットだ。
 当然、ネットワーク政策も変わってくるんだが、同時に、コンテント政策も重みを増す。フランスほど強い文化政策は取れないにしてもだ。それで思い出したが、インターネットはハードの規格を作らず、HTMLというコンテントの規格だけを作ったから成功した、という説を岩浪剛太さんに聞いたことがある。コンテントの作り方だけ決めて、アクセス方法やプラットフォームやOSを自由にしたのがWEBの本質だと言うんだ。これはショックだったね。各国ともこれまで、ハード規律・ソフト自由がメディア発展の基本と考えてきたから。政策の根本が崩れることになる。
 問題は、よりトータルなメディア環境の整備だ。遠隔医療、遠隔教育、テレワーク、知的所有権、情報犯罪、プライバシー保護、電子認証、電子政府、情報公開、そういうもろもろの条件を整えることが急務。マレーシアは、こういうのをひっくるめた「サイバー法」を作ってるという話を大前研一さんや会津泉さんに聞いた。マハティール首相は2020年に先進国の仲間入りを果たすという「ビジョン2020」なる国家目標を掲げ、情報通信立国を目指している。うらやましいほど明確で、速くて、強い政策だ。

●ヤインフラや制度を作る時には、リーダーが強権を発動できる体制の方がやりやすい。ビジョンや社会デザインが描きやすい。日本も明治の頃はそうだったんだろう。先進国ではむつかしいよね。合意形成に時間がかかる。ただ、フランスでは、ものごとを昼間の会議でオープンに決めている、というわけではない。エスタブリッシュメントが夜ごと開くパーティーで、もぞもぞと大事なことが決まる。仕事は夜動く。夢は夜ひらくんだ。階級が厳然と残る欧米諸国はたいていそんな感じだと思う。日本は料亭政治とか密室行政とか、イメージが暗い。同じようなことやっててもイメージが違うのは、シャンパンの爽快感と熱燗のぬめり気の差かなあ。シャンパングラスとお猪口の透明度が違うせいかなあ。

○モ政府全体の取組と言えば、就職まもない頃、「長寿の秘訣」って名前の官僚バンド組んでたことがある。ギター・ボーカル郵政省、ベース農水省、ドラムス大蔵省。土台とアプリケーションの分担が絶妙でしょ。通産省と外務省からも一人づつ入れて、アナーキー・イン・ジャパンってアジらせようか、って考えたんだが、誰も乗ってこなかった。
 楽器をいじってた頃は、どんなメロディでもいちど聞いたら忘れない自信があった。物音に敏感で、工事現場の騒音や梢のざわめきも音楽として聴き入っていた。だけど楽器を捨てて8年もたつともう全くダメで、メロディをなんど聴いても覚えられない。既に私は人生で与えられた音楽情報の処理量を使い果たしたのかもしれない。
 そういえばこの間、少年ナイフの曲を世界のいろんなミュージシャンがリミックスしてCDを作る企画があって、13年前に私がてがけたInsect Collectorという曲を坂本龍一さんに再構成してもらった。曲が生まれ変わった。偉大な恩師のおかげで不肖の息子が更生した、というより、全く別人の偉人になって現れた、という感じ。やっぱり世界の力量はスゴイなあ。
 アムロはいろんなプロデューサーや作曲家の力量を映す鏡になるよ、とかつてナンシー関さんが指摘していた、という話をいとうせいこうさんから聞いた。かっこいいこと言うなあ。間寛平がどったんばったんギャグかましているところを野沢直子がかっこいーかっこいーと喜んでいて、それは本当に野沢直子がお笑いをかっこいいと思っているからで、かっこいいぞ野沢直子、というようなことを以前ナンシー関さんが書いていたが、かっこいいこと書くなあ、と思った。

●ヤ一生のうちに情報を処理できる総量は決まっているはずだ。メディアの姿が変わり、世間に流通する情報量が飛躍的に増えるとしても、各自の脳みその中を流れる情報の量は生まれたときから定められているんだと思う。
 日本にいる時分たしか豊丸さんに聞いた話だが、人類が一定期間に要するHの量は定まっている。このため、どこかの地域で抑制しても、他の地域でその分、Hを増加させる必要がある。同様に、人生、Hの総量は決まっている。先端から赤玉がぽろりと出たら、それが人生のH総量を使い果たしたことの宣告だ。
 月に向かって打て。そう言ったのは、東映で張本と白とともにクリーンナップを張っていた大杉勝男だ。関係ないが。
 脳みそから赤玉がぽろりと出たら、それが人生のメモリーとMPUがクラッシュしたことの宣告だ。アルドもマチルドも、最期の瞬間に、赤玉を見たんだと思う。 
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