5年以上まえから同じことばかり言っているので、アイツまたあれかと思われるかもしれませんが、整理のため。
1 問題への姿勢
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- メディア実態としての融合のメリットを国益レベルで議論することが欠けている。メリットを示した上で、法律マターに落とし込むという手順が必要だろう。
通例、融合問題は、通信と放送の最大公約数をどう扱うかが論点とされているが、最小公倍数の問題に間口を広げ、メディア全体の発達をどう促進するかという観点から切り込むべきではないか。
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- 放送は通信の一部門であり、それを「法的に」融合させるというのは、放送の特別扱いを薄めるということ。特段クリエイティビティな面はなく、また、法律論で言えば現状で困ることもない。議論の大半は通信事業の一種二種区分撤廃論と同じく幼稚で、各種業法の統合を論じるのと同じく「可能だがメリットは薄い」話。責任官庁たる郵政省は常に受け身となるが、逆に世論にあらがうほどの価値もない。
逆に、郵政省側から融合のメリットを示してきていないことが手詰まり感を招いているように見受ける。
2 融合の本質
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- 放送の本質はコンテンツ(テレビ番組)。通信の本質はつなぐこと(インターネット)。したがって、融合の本質は「テレビ番組をインターネットで流通させること」。
全国で時々刻々と生み出される大量の映像コンテンツを各種ネットワークで流通させることであり、推進すべき政策課題と位置づけるべきものとなる。
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- 特に日本の場合、コンテンツにおけるテレビの位置づけが大きく重いということから議論をスタートさせる必要がある。映像ソフト制作の97.5%をテレビ番組が占め、競争力のあるコンテンツもアニメ・ゲームというテレビ周りのものだという産業実態に加え、国民意識にテレビが占める重みも他の先進国に類をみない。放送に対する規制が緩く(殊にコンテンツ無規制という先進的?制度)、衛星出現まで民放に対する政府の管理が実質的になかったこともこの要因。
この点、アメリカのコンテンツはハリウッド偏重で、制度的に誘導されてきた面もあって、放送はいわばネットワーク業に近い。通信と放送の融合と言っても、CATVでインターネットを提供するといった伝送路の結合問題に収束しがちである。
なお、メディアの構成要素をネットワーク、コンテンツ、プラットフォーム(端末)に分類した場合、90年代前半それぞれの分野内部でデジタル融合が進展した動きは、90年代後半から、それぞれの要素どうしをつなぐという段階に歩を進めている。ネットワークとコンテンツの融合(通信と放送の融合)もその一つだが、ネットワークとプラットフォームをつなぐ「インターネットの普及」に加え、コンテンツとプラットフォームをつなぐ「デジタルテレビ」も重要な課題。テレビ番組をコンピュータで使えるようにするというのが本質的な意味である。(アメリカはデジタルテレビの実行段階でその意識が希薄化したために失敗している。コンテンツをハリウッドと読み換えるから、高画質大画面が欲しくなる。)
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