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REPORT
時代閉塞の中で中央省庁の再編成について考える
◆特別寄稿  ニューメディア 98年8月号
 日本が病んでいます。不景気で元気が出ません。揺るぎなかった金融分野がドロドロになっています。高潔なはずだった官僚の不始末も露呈しています。20世紀を支えてきたシステムの底に穴が開いて、水がざあざあ漏れているようです。
 ただこれはどうも日本だけの問題ではない。先進国ぜんたい、あるいは全人類が大きなカベに直面しているように思うんです。それも、景気の循環という、まあ仕方ないか、という変動にとどまらず、歴史の断層というか、人類史の前期と後期を分けるほどの岐路にさしかかったような気がするんです。
 20世紀型の工業を引っ張ってきた資源エネルギーは限界をあらわし、輝く未来を保証する科学は細分化されつくしています。資本主義と共産主義という産業イデオロギーの対立は、それはそれで世界を活性化する要因でしたが、ぐじぐじと終結しました。閉塞を打破する手段であった革命も戦争もなくなりました。
 近代が築いてきた基本メカニズムが陳腐化し、将来を明るく展望する根拠が見出しにくくなっています。昨日より今日、今日より明日の方がハッピー。より便利に、機能的に、豊かに。そう、進化することが近代の命題だったのです。その命題が支配力を失いつつあるんです。それは子供に聞いてみればわかる。ぼくらが幼いころ、21世紀といえば宇宙ステーションと摩天楼をエアカーで散歩するあこがれの時代でした。でも、今の子供たちが描く未来は、核戦争を経て荒涼とした大地の地下要塞で、モンスターに拳法で立ち向かう殺伐とした空間なのです。
 さらに、21世紀のこの国では高齢化が進みます。ボーダレス化も進みます。新しい枠組みを求めて、ここで手を打つのは当然です。だから今、行革なのでしょう。社会経済システムをバージョンアップしてみよう、ということです。たとえて言えば、省庁再編で処理スピードの向上とシステムのコスト削減。地方分権・規制緩和で分散処理。情報公開でLAN対応とマルチクライアント対応。金融・財政構造の改革で国際標準準拠、ってとこでしょうか。
 
 私は今、郵政省で省庁再編を担当しています。霞ヶ関の機構改編をどう進めるか。その中で、情報通信行政はどうあるべきか。日々悩んでおります。
 省庁再編は、マスタープランが策定された段階です。総理を会長とする行政改革会議が昨年の12月に最終報告をとりまとめ、これを進めるための基本法案がこの2月に通常国会に提出されたところです。1府21省庁ある現行の中央官庁を1府12省庁に再編するというものです。これにより、財務省、経済産業省、国土交通省、環境省、労働福祉省といった新しい名前の役所が出現します。
 郵政省は、総務庁、自治省と統合され、「総務省」という役所になるとのことです。郵政省の情報通信行政もそっくり総務省に移管されます。郵便局の仕事は総務省の下に郵政事業庁という組織を作って対応します。郵便を通信の基本と位置づけていくこと、情報通信ネットワーク行政を全国津々浦々のネットワークである郵便局と一体として展開していくことに変わりはありません。
 また、総務庁、自治省と一緒になることで、行政の広がりも期待されるところです。総務庁は行政情報化を担当している官庁であり、情報公開の推進役でもあります。自治省は地域情報化の推進役です。近所の郵便局に行けば、行政手続をオンラインで一括処理するワンストップ行政サービスだとか、電子政府だとか、そういう具体的な政策展開も現実味を帯びてきます。
 これらは、基本法案が順調に成立し、その後の準備がうまく進んだ場合の話です。基本法案によれば、早ければ2001年から新体制に移行することが見込まれています。準備というのは、まあ、会社で言えば合併とかリストラとか、そんな感じのややこしいことが色々ありますので、ややこしいわけです。それに役所の場合、会社で言えば定款に当たるものや、どのセクションが何を担当するかといったことは、法令で定められますので、手間がかかるわけです。
 省庁再編というのは、組織いじりです。でも、大切なことは、組織というハコじゃなくて、政策という中味なんですよね。ハードよりソフト、ってゆーか。メディアの行政を、これからどうしていくか。考えるにはちょうどいい機会なんです。
 メディアは各国とも戦略分野として位置づけています。アメリカには、インターネットとパソコンとハリウッドがあります。この強い産業力を世界に広げたい。軍事用に開発したシステムを民生化して、民間を前面に立てて、世界をオープンにしろと迫ります。ヨーロッパ大陸は、団結して、防衛を図ります。アメリカの産業戦略に対し、国家が前面に出て、旧植民地も巻き込んで、文化保護、アイデンティティの維持を唱えます。
 アジア諸国は、インフラ整備の遅れをバネに、国家主導で最先端の技術を導入して、一足飛びに先進国のメディア状況を追い抜こうと意気込んでいます。韓国は、逓信省に情報産業・技術行政を統合して情報通信省を作りました。中国も、省庁を大幅に統廃合する中で、郵電省を母体に情報産業省を作るといいます。国として、何を重視するか、意志が明確です。
 日本はあいまいです。世界の中でどう生きたいのか。どうもはっきりしません。日本はマルチメディアに出遅れているという指摘も聞きます。でも、アニメやゲームは世界を圧する競争力を持っています。家電も強いしデバイスも強い。日本には持ち物があるのに、それをどう活かすかという戦略があいまいなだけなのではないか。このテレビの国は、コンピュータの国であるアメリカ型のやり方をそのまま直輸入してもすんなりとは行かない。情報に受け身体質で均質文化の日本には、日本なりのやり方があるんじゃないか、と思うんです。
 例えば日本の政策は、映像コンテントの大半を占めるテレビ番組を軸に考えればいい。そうすれば、テレビ・コンテントのデジタル化、そのためのネットワークの高速化、すなわち通信と放送の融合が政策課題だとハッキリしてくるわけです。
 メディアは21世紀を築きます。情報化は大切です。でも、ホントのところ、なぜ大切なのでしょうか。今後の情報通信行政を考えると、結局ここに行き着きます。
 メディアは経済を牽引します。世界をリードする形での規制緩和も手伝って、メディアはリーディング産業と呼ばれるまでになりました。2010年には125兆円に成長するそうです。また、メディアは暮らしを豊かにします。ネットワークでどこのサイバー空間にでも行けて、買い物もできる。便利です。ネットワークでつながり、仲良くなり、平和になる。なるほど、大切だ。 だけど、だから今メディアなのでしょうか。戦後を貫いた産業中心の価値観だけで評価してはいけないのではないでしょうか。近代を貫いた機能進化論で評価しても不十分ではないでしょうか。だいいち、便利だと言うけれど、誰が便利になったのか。パソコンが導入されて仕事のスピードは上がったけれど、ケータイを持たされて上司はボクを監視するけれど、ラクになった覚えはない。誰のための情報化なのか。
 私は、人類にとってメディアが大切だというのは、「無限」の獲得と「認識」の変革にあると思っています。
 モノやエネルギーを消費してきた近代工業社会は、知恵や情報という無限の資源を元手として、知恵や情報を生産する「情報社会」に転換できるといいます。それは、マルチメディア・ネットワークが、ヒトの想像力のままに、バーチャル空間という新しい活動領域を形づくっていくということです。ヒトは無数のコミュニティを獲得し、現実を超える永遠ともいうべきステージに到達するわけです。いまや人類にとって唯一のフロンティアです。100年後、あるいは1000年後に歴史を振り返れば、人類はあの瞬間にサイバー空間を獲得したと評価される、その地点に今ぼくらは立っているのではないでしょうか。
 さらに、メディアが大切だというのは、価値観を転換させるところにあると思うんです。大昔、言葉を生み、文字を生み、論理を組み立て、メディアを生んだ。でも結局、言語による論理表現は気持ちを伝えない。そこで映像メディアは、それとは別体系の思考・表現様式を取り戻す。ぼくらは、映像で考え、映像で表現することで、情念を扱いやすくなるでしょう。メディア技術は、視聴覚だけでなく、五感も体感も総動員させた表現や認識を開発していくでしょう。きっとそうなります。知識や論理だけでなく、感情をも共有する、ということです。技術が実現し、さらにヒトが追いつくには、ずいぶん時間がかかりますが、これは人類史を刷新する力を持つものです。
 ネットワーク空間は自由な社会だといいます。でも自由と安心は別物です。自由な社会は、悪者にとっても自由なのです。国家、産業、世代など、色んなセクター間でさまざまな対立が起きます。これまでもヒトは現実の社会を作り上げていくために大変な時間と労力を費やしてきました。サイバー社会も同じことでしょう。ぼくらはネットワーク上の新しい対立を、社会経済エネルギーに転化していかなくてはなりません。
 また、そこでは、本当のクリエイティビティが価値を持ってきます。日本人は昔から、映像クリエイティビティに優れてきました。浮世絵が印象派を生み、黒澤がヌーベルバーグを育み、手塚がディズニーを刺激し、マリオが世界のクリエイターを目覚めさせてきたのです。言葉のカベを超えた万国共通の映像表現の時代は、ハリウッド表現と、日本型アニメ・ゲーム表現が築くしかありません。日本には、いい時代が来るはずなのです。
 重要なのは、このネットワーク社会は子供たちのものだということです。ネットワーク社会を築いていくのも、クリエイティビティを発揮するのも、子供たちです。大人は、オープンなネットワークを子供たちに用意して、よみかきそろばんをオーディオ・ビジュアル・インターネットに換えていけば、あとは彼らが先導していってくれるでしょう。その途中、彼らは行儀の悪いこともしでかすでしょうが、それは受忍すべき授業料でしょう。
 今の閉塞状況は、行革だけでは突破できません。この閉塞を打ち破り、パラダイムを転換するには、太古から培ってきた人類のOSを切り替えるしかないんじゃないか。価値観の基本設計をいじるしかないんじゃないか。かつて近代を迎えた人々が、宗教から離脱し、自我の形成に躍起となったように、ぼくらが未来を解くためには、新たな自我を構築するしかないんじゃないか。そして、それは、メディア技術だけが解決する力を持ってるんじゃないか。なんだか大げさな話になっちゃいました。でも、ホントそう思うんです。行革にしろ、情報通信行政にしろ、対処療法で満足してしまうと、長期的な行方を見失うんじゃないかって。
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