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BOOK
マルチメディアのある日本
 ◆「メディア論」 98.4.1 京都造形芸術大学(教科書)
1 実像としてのメディア産業
 マルチメディアは、号砲であった。メディア進化の必然として、コンピュータとテレビと電話のエキスをデジタルで融合させようという、一点突破に向けての合い言葉だった。90年代初め、それは甘いイメージを振りまいた。実像が伴わないうちは、それで許された。
 しかしその後、インターネットをはじめとする厳しい実態が生まれてきた。もはやブームではなくなり、実像を伴うビジネスとなってきた。PCの普及に加え、テレビでインターネットが使えるようになり、データ放送も開始され、インターネットは家庭に浸透しはじめた。サイバービジネスも具体化し、電子マネーも立ち上がってきている。
 そしてメディア産業は30兆円に成長した。通信だけで10兆円、鉄鋼や造船を上回る産業となった。経済を牽引する設備投資をみても、移動通信だけで自動車や鉄鋼を上回る。経済の主役の座が交代した。リヨン・サミットでも、情報通信は経済成長と繁栄の原動力だと宣言されている。
 2010年にはメディア産業は125兆円にまで達すると予測されている。コンテントビジネスがその55%を占めるようになるとも言われる。映像ソフト産業が成長するだけでなく、くらしや企業の営みがサイバー空間で行われるようになるため、従来の経済活動がメディア産業としてカウントされていくのだ。
 こうした動きは、規制緩和に裏打ちされている。情報通信分野の規制緩和は急ピッチで進んでいる。NTT再編成をはじめ、メディア産業は次のステージに移行しようとしている。誤解が多いのだが、日本の規制はアメリカに比べ決して強くはなく、制度の透明度もむしろ高い面がある。しかし、アメリカに比べ、日本では競争が進んでいないことは事実だ。ただ、日本は外資規制も撤廃することとしており、これから外国企業も含め市場参入が進むだろう。市場環境や技術進歩に伴い、一層の規制緩和もあろう。メディア産業の実態はダイナミックに動いていくことが期待できる。

2 近代の超克
 マルチメディアやインターネットは、こうした産業成長力の点で注目を集めている。ところが、メディアに携わる意味は、そんなところにあるのではない。産業中心の価値観で行くのなら、また新しい成長分野が発生すれば、そちらの方が重要になってしまう。だが、たとえメディア産業が構造不況になったとしても、メディアはいちばん大切なものだ。戦後日本は経済を宗教としてきた。産業の発展は最重要事項だった。そして経済にとって数字は命だ。だからといって数字だけ見てると間違うこともある。メディアは、数字より大切なものでできあがっているからだ。
 それは何か。例えばメディアで暮らしが豊かになる。ネットワークで便利になる。ネットワークでつながり、仲良くなり、人類は平和になる。なるほど大切だ。しかし今、20世紀の終わりに、メディアが大切だというのは、そんな耳ざわりのよいことでもない。
 そう、今、人類が直面していること、少なくとも先進国が悩んでいる事象は、もっと断層的な歴史転換の問題なのだ。戦争は失せた。革命もなくなった。資本主義と共産主義という産業イデオロギー対立は終結した。エネルギーは限界を露呈し、科学は細分化されつくした。近代が築いてきたシステムがみな崩れ、近代は閉塞感で充満している。進化という近代の命題は、支配力を失った。
 かつて近代を迎えた人々は、宗教から離脱し、自我の形成に躍起となった。日本では、同時に、近世という豊穣な文化王国を捨て去るという失態を演じた。そして今、近代が行き詰まった。残ったものは「私」のみだ。この閉塞を払拭するには、私は新たな自我を求めざるを得ない。あるいは、むかし失ったものを取り戻すしかない。私は、見聞きし、主張し、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、思い、悩む。未来を解くカギは、そうした個々の体験や思念、感情の内側にあるはずだ。
 メディアは、体験や思念、感情を操るための道具だ。閉塞を突破する手段はメディアしかない。メディア技術は、太古から培ってきた人類の認識や思考の様式をバージョンアップし、体験や表現を一気にぬりかえる。21世紀、その力を借りれば、モノやエネルギーを消費してきた近代工業社会は、知恵や情報という無限の資源を元手として、知恵や情報を生産する「情報社会」に転換できる。
 パラダイムを転換することが必要だ。そのためには、新しいメディアには、精神や肉体と同化するほどまでに定着してもらわなければならない。マルチメディアの名の下に、個別の現実メディアが現れて、マルチメディアというあいまいな名前を消し去ることが必要だった。そこでひとまずインターネットという具体例が登場し、理念から実態の段階に移った。でもやはり、インターネットもブームでは困る。誰もインターネットのことを話題にしなくなるところまで、空気のように血のように、くらしや経済に溶け込んでもらう必要があるのだ。

3 国家戦略
 メディアは各国とも戦略分野として位置づけている。わかっているのだ。
 アメリカには、インターネットとパソコンとハリウッドがある。この強い産業力を世界に広げることがアメリカの戦略だ。だから各国に市場開放を要求する。そして、インターネットもパソコンも、もとは国が軍事用に開発した技術だ。カーナビのGPSのように今も軍事物資を使っているものもある。ハリウッドも、巧みな政策誘導で今日を築いている。
 中央集権・官僚国家のフランスは、インターネットやパソコンの普及は遅れ、テレビ番組は輸入に頼り、栄光のフランス映画もハリウッドにやられて元気がない。だが、ミニテルという世界で初めて市民レベルに浸透したインタラクティブ画像メディアがある。650万台という普及度が著名だが、それよりも大切なのは、2万を超える情報提供サービスが熾烈なコンテント競争をしていることだ。どんな情報が求められ、どうやって集金し、どうやってコンテントビジネスを成立させるか、10年かけて学習してきた蓄積は、貴重な国家資産である。これでインターネットを迎え撃つ。
 そのバックボーンは国家である。ことにコンテントに関しては、国が前面に出て、文化アイデンティティをタテに防衛を図る。93年末のガットAV交渉でもフランスは、映像産業の開放を迫るアメリカにヨーロッパを代表して挑み勝利をおさめている。
 フランスでは国家当局がテレビの番組をぜんぶ録画して、国営アーカイブに保存している。そこでは3Dなどのデジタル映像技法の開発も進めていて、蓄積した映像をデジタル化してインターネット利用させることももくろんでいる。
 アメリカ型、フランス型ほどの鮮やかな色彩はなくとも、他の先進国も同様に戦略的に取り組んでいる。アジア諸国も、インフラ整備の遅れをバネに国家主導で最先端の技術を導入して、一足飛びに先進国のメディア状況を追い抜こうと意気込む。
 例えばマレーシアは、ビジョン2020という構想を推進し、マルチメディア立国によって先進国の仲間入りを図ろうとしている。その中核であるマルチメディア・スーパーコリドー計画では、マルチメディア特区に情報インフラの整備と情報産業の集積を図り、関連制度を包括的に手当するサイバー法を適用する考えだ。シンガポールもIT2000というデジタル・アイランド構想を推進している。

4 あいまいな日本のメディア
 パソコンや競争といったアメリカ的な特技も、フランス的な権力の発動もないが、メディア規制はとてもゆるい国ニッポン。日本はマルチメディアに出遅れているとの指摘が多いが、事実だとすれば、それは日本は持ち物がないからではなく、持ち物をどう活かすかという戦略が欠けているからだ。
 日本の特技を挙げてみよう。テレビ。ゲーム。アニメ。マンガ。カラオケ。家電。新聞。カネ。このテレビの国は、コンピュータの国であるアメリカ型のやり方をそのまま直輸入し、適用してもすんなりとは行かない。情報に受け身体質で均質文化の日本には日本なりのやり方がある。
 例えば、ゲームやアニメといった世界を圧する競争力のある分野を活かしていくべきだ。ハリウッドに伍す展望も拓け得る。ここでアメリカと日本の違いは、映画とゲームのパワーの差ではなく、映画が大事だと思っている国の風土と、ゲームを大事だと思っていない国の風土の差にある。本質的な持ち物の差というのは、そういうことだ。
 例えば、テレビという家電システムを軸に、インターネットも融合して、デジタルのコンテントが流通する状況を作るべきだ。映像ソフト生産量の98%をテレビコンテントが占める日本では衛星デジタル放送の成否が他国に増して重要なポイントとなる。
 ちなみに通信と放送の融合という言葉が話題になるが、その本質はあまり理解されていない。たしかにここにきてパソコンでテレビが見られるようになったり、テレビでインターネットができるようになったり、端末での通信と放送の融合は進んできた。それはそもそもそうすべきものだっただけのことだ。通信衛星で放送が行われたり、CATVでインターネットが提供されたりといったネットワークの融合もある。これもハードどうしの結合で、あたりまえのことだ。
 ちょっと違うのは、インターネットのホームページが流されるデータ放送だ。放送のネットワークに通信のコンテントが流れるというものだ。ハードとソフトの結合であり、そこには「意志」がある。しかし、これも本質ではない。本質は何か。放送の本質はコンテントだ。通信の本質はネットワークだ。だから、通信と放送の融合というのは、放送のコンテントを通信のネットワークで使う、という点にある。テレビの番組をインターネットでいじくる、というものが出てきてはじめて「融合」と言える。
 ちなみに放送のデジタル化も同様の本質論が必要だ。ヨーロッパはデジタル化を多チャンネル化の手段とみている。80年代半ばまで国営テレビ中心だったヨーロッパ大陸は、まだチャンネルを増やすことに熱心だ。一方、多チャンネルが定着したアメリカの放送業界は、デジタル化をコンピュータ化の手段とみている。放送の競争相手は通信だ、と認識されている。そう、これが本質だ。放送のコンテントをコンピュータでもいじれるようにする、というのが放送のデジタル化の眼目だと思う。日本の業界はどうみているのだろうか。


5 恐怖装置
 修学院の自宅からパリのサイバーモールに出かけてスカーフを選び、電子マネーで支払う。貴船の別荘からデリーのサーバ上にある会社に勤める。宝ケ池のアパートからボローニャの学校に通う。出町柳で信州の病院の先生に診てもらう。岩倉の下宿からNYのコンサートに行く。メディアは、とりあえず便利だ。産業、政治、暮らし、あらゆる活動をやりやすくしてくれる。何でもできる。
 だけど、それで喜んでいていいのだろうか。いったい誰が便利になり、誰が喜んでいるのか。例えば、オヤジはどうか。オヤジ連中に強制配備されたパソコンは、会社のスピードアップのための装置だ。効率アップして空いた時間には新しい仕事がすべりこんでくる。同時に手にした携帯電話は会社の監視装置だ。疲れる。しかも、LANで中間管理職が不要となり、リストラで競争力がつく。会社には便利だ。が、オヤジにとっては、恐怖の機械だ。
 そんなオヤジ連中には、かつて特権があった。夜。華やかなスポット。裏通り。あやしい遊び。つまり、オヤジ連中だけが知っている、という情報特権だ。ところが、そんな特権も、情報化のせいで、かあちゃんと子供に奪われてしまった。情報をむさぼる彼らがすべてを占領してしまっていた。家の中にも居場所はない。新しいメディア階級が台頭してきたのだ。いまや真のエグゼクティブとは、携帯を捨て、情報を遮断できる人のことを指す。
 情報化はいいことだ、コンピュータは使うべきものだ、そんな社会的了解は、いつどこで行われたのか。かあちゃんや子供がこっそりと決めてしまったのか。いやだと思っても、使わなければ、会社からも閉め出されてしまう。かあちゃんも子供も怖い。だから、オヤジ連中は、団結も抵抗もせず、脂汗を流しながらパソコンと格闘する。
 明治以来、日本人は豊かな社会を追求してきた。身を削って働いてきた。その結果、とても機能的で便利な社会が実現した。オフィスは静かで清潔で効率的になった。スピードは上がり、ムダはなくなった。きちんとして、シャキッとして、論理的で、はっきりした世の中になった。望んでいた社会がやってきたのだ。そのはずだ。
 本当だろうか。それが望んできた豊かさというものか?ずっと夢想してきた豊かさというのは、もっとめくるめくゴージャスな世界じゃなかったのか。ゴージャス。そう、ゆったりとして、のんびりして、ムダだらけで、必然性のないことを許すにこにこした環境じゃなかったのか。メディアは、それを実現してくれるためのものではないのか。
 サイバーな商取引が行き交うとはいえ、まだこぞって集金方法を手探りしている段階であり、商売の道具としては成立していない。インターネットが家庭に侵入してきているとはいえ、まだ利用者は国民の1割程度だろう。それにまだ動画さえ満足には送れない。サイバーなコミュニティができあがるのはまだ先だ。だから、今がチャンスだ。今のうちに、メディアへの思いをぶつけておくべきである。

6 万人のための映像
 マルチメディアの本質は、便利だということではない。言語による論理表現とは別体系の思考・表現様式を取り戻すことにある。映像でものをみて、たぶん映像でものを考えていた太古、人は思いを伝えるために言語を生み、そして文字を生み、そしてメディアを生んだ。近代以降、奇跡的なテクノロジーの開発が相次いで、21世紀、メディアは完成に向かう。でも結局、言葉では気持ちを伝えきれない。映像で考え、映像で表現するというのは、情念を自在に扱おうとする試みなのだ。感情を伝えるためには、映像でも全く不十分だが(ヴァーチャルリアリティーで五感や体感をサイバーパンクさせてもまだ無理だと思う)、それでも跳躍的な進歩である。
 だから、これは万人のためのものなのだ。言語の論理に長けていることが必要だった従来のメディアとは異なり、感情を共有するための道具には参加資格は要らない。いずれ誰もがインターネットでテレビ局を開けるようになる。全国民が動画のサーバを持つようになる。そして全身で表現するようになる。
 とはいえ、道のりは遠い。すでに電子メディアは無尽蔵の知識を与えてくれる。だが、まだ笑い、怒り、感激、といったアナログなものをテリトリーにはしていない。デジタルはアナログのためにあるのにだ。私にとってパソコンは家来か教師のどちらかで、まだ友達ではない。パソコンが文房具になり、産業も生活もスタイルが変わっても、自分が心に抱く大切なものとか、情緒のスタイルといったもの、言い換えれば「リアリティー」、はまだ何も変わらない。
 しかも、映像ツールと呼べるためには、速度も容量もまだこれからだ。それに、映像を受け身で視聴するだけでは、言語能力が衰えるだけだ。映像を作り、出すためのものでなければいけない。キーボードはビデオカメラに取り替える必要がある。映像表現の訓練も要る。よみ・かき・そろばんは、オーディオ・ビジュアル・インターネットになる。やることはたくさんある。
 さて、言語はアイデンティティーだ。何語で考え、何語で表現するかは、民族の根本とも言える。フランス人が英語を嫌うのはそのせいだ。インターネットの普及にフランスの保守主義者が反発するのはそのせいだ。
 映像は、世界の共通語などという。マルチメディア文明では、映像は世界語になる。ところが映像の技法や文法は、固有のスタイルを形作り、それじたい文化として成立する。これをハリウッドが握ることとなると、それは人類のアイデンティティーを薄めることになる。固有の血の色が薄くなる。だからフランスはもっと強く反発する。映像社会に向けて、そんな文化と文明と国と民族と産業をめぐる問題にもけじめをつけていかなければならない。


7 クリエイティビティ
 人類にとって最も大切なのは、クリエイティビティである。
 親の反発をよそに、世界の子供たちは、日本のアニメとゲームにハマっている。戦隊シリーズ、少年・少女格闘モノ、RPG、日本のクリエイティビティの独壇場だ。アメリカの映像テクノロジーに競合し、ハリウッドに伍して文化や表現の多様性を追求する勢力は、今のところほかにない。
 この映像クリエイティビティは、何も最近になって具備した能力ではない。日本の伝統社会、文化の中でむかしから培われてきた才能なのだ。浮世絵が印象派を促し、ミゾグチがゴダールをうならせ、手塚がディズニーを刺激し、マリオが世界の偉人となったのは、(浮世絵からミゾグチまでに断層があるものの)リニアに流れる日本の栄光の歴史だ。そうした才能が、より自由で機動的なフィールドを求めて、順次、マンガやゲームの世界に流れ込んできているわけだ。
 映画やマンガは、百年かけて表現を熟成してきた。その業の深さに比べたら、アニメやゲームはまだ血が薄い。悪い意味でのこども相手の域を脱していない。志を高くして、未開の表現を切り拓いていく必要がある。
 このための才能は、日本にはあふれている。97年のカンヌで、今村監督と河瀬監督がそれを世界に再認識させてくれた。世界に羽ばたいて活躍している人も多い。才能がハリウッドに流出し、国内が空洞化する心配もある。フランスやイタリアといったかつての映画大国からもクリエイターのハリウッド流出が問題視されている。まだ国際化を達成していない日本にとって、日本の天才が国際社会で活躍するという動きは、望ましい姿と見るべきかもしれない。ただ、その才能のいくぶんかは国内に残っていないと、21世紀の知識創造社会では、国の生きる道が極端に狭まる。
 クリエイティビティは、オーディエンスの質と層の厚さが育む。路上でゲームを奪い合い、朝は通勤電車でマンガ誌をむさぼり読み、夜は仕事で強制的に映像カラオケ表現の腕を磨かされる。そんな国民訓練にいそしむ国は日本しかない。そうやって鍛えた映像処理能力は、重要な国民資産だ。こういう土台があるからこそ、天才的な表現者が誕生し、それがまた土壌を豊かにする。
 さて、インターネットは表現ツールだ。音楽や絵画といったアートも流通しはじめた。しかし、インターネット独自の表現様式はまだ生まれてはいない。ネットワークでしか表現できない新しいアートを創造すべきだ。インタラクティブに観賞しながら製作する作品だったり、ネットワーク上に一瞬しか存在しないライブ・アートだったり、リンクだけでできあがった分散表現であったり、可能性はいくらでも広がる。
 ここで大切なのは、その表現様式は子供たちが開拓していくということだ。他の表現分野で芽の出ない大人たちがネットのたまり場に寄り集まっても展望は開けない。表現様式が熟度を増すには、ある時点で爆発期を迎えることが必要だ。そのためには、これから表現を始めようとする子供たちが、いきなりインターネットを場として選び、才能をぶつけていくしかない。映画もマンガもロックも漫才もどの様式も、そうやって表現の爆発期を迎えてきた。ネットワークもそのはずだ。臨界点は近い。
(筆者の趣味を交えて独断すれば、映画は60年頃、小津・黒沢・成瀬・川島・岡本・増村・大島…、ルノワール・ホークス・ヒッチコック・ブニュエル・ビスコンティ・フェリーニ・パゾリーニ・ベルイマン・レネ・ゴダール・トリュフォー・マル・タルコフスキー…。ロックはイギリスで60年代後半の様式確立と80年頃の解体・再編、マンガは60年代後半の手塚・つげ兄弟という両極からなる磁場、漫才は70年頃と80年頃の2次のブーム。)


8 自由の幻想
 マルチメディア・ネットワークは、理解や認識、そして肉体の可能性を増殖させていく。平面の動画は、立体になる。視聴覚だけでなく、五感も体感も総動員させた表現や認識を開発していく。表現の内容も、解像度や現実感といったリアルさの追求とともに、リアルを超え、個々人の認識に深く結びついた「リアリティー」を提示していく。同時に、想像力のままに、「バーチャル」という新しい活動領域も切り開いていく。これでようやく現実は、現実を超えられる。ネットワークは唯一のフロンティアであり、これで人類は、永遠とでも呼ぶべきステージに到達する。
 そんなネットワークの可能性をみくびってはいけない。だが、どうも今のネットワークにまつわる美辞麗句には、あやしげなものが多い。例えば、自由。インターネットは自由な空間で、するとみんなが集い、融和し、幸福になる、というイメージだ。自由にそんな理想をかぶせるのは、ひょっとすると日本だけかもしれない。自由というのは、もっと厳しいもののはずなのだ。
 私にとって自由な場所は、悪者にとっても自由な場所のはずだ。国家からも自由なボーダレス・コミュニティというのは、麻薬の人やテロリストのような、国から逃れたい人が真っ先に集いたがる空間ではないか。つながって、理解が進み、仲良くなるという。だが、男と女は、いや、男同士でも女同士でも、互いに知らない間は平和だが、わかり合うことでアラが見えたり対立したりするものだ。
 歴史上、自由というのは、叫び、血を流し、勝ち取るものだった。ところがどうもネットワークの空間は、スキがありすぎる。96年、各国はネットワーク・コミュニティに介入し、97年には国際ルール作りが本格化しはじめた。ポルノ、ネオナチ、詐欺。ネットワークという無防備都市は、草の根の悪意と、それをつぶしにかかる権力とのはざまにある。悪意も権力も、自らの自由を守ろうとして、自由な空間で暴れている。とつぜん現れたそのうさんくさい空間は、ポップな場末なのか、暗黒のスラムなのか、その見きわめがつかない。
 戦争という国家イベントはもうない。民族も宗教も産業もボーダレスに分散している。国家のアイデンティティは、国歌と国旗の栄に浴するオリンピックと、ボクシングのタイトルマッチ、サッカーのワールドカップ、そして「通貨」しか残らないかもしれない。だから便利な電子マネーにも国家はナーバスに対応する。
 対立は、経済や文化、民族や宗教といった面だけではない。言語族(メール族)と映像派(ビデオ派)の対立、世代間の対立も起きるかもしれない。これは深刻だ。映像ネットワークで連帯して、最先端の知識で武装した連中は、それまでの経験主義世代を駆逐しようとするだろう。
 現実社会は、そんな体験をくりかえし、行ったり来たりしながら、なんとか作られてきた。ネットワークの社会も同じはずだ。一日にして美しく出来上がるものではない。デジタルという融和のためのツールは、新しい対立を強いる。その対立エネルギーを21世紀のパワーに転換していくことが自由社会の課題である。
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