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REPORT
日経Web Company 
2001年5月号(4月8日発売)追悼・ベンチャーの雄
大川功特別寄稿  「最後のお大尽、大川さん」
中村伊知哉

<リード> 
 一般に大川さんといえば、年商1兆円のCSKグループを築いたベンチャーの雄と位置づけられている。しかし私にとってその枠はあまりに小さすぎる。そこからはみ出した大川像にこそ、大川さんの面白さがある。

(本文)
■国士
 初めてお目にかかったのは、私が郵政省の新人だった頃。17年前です。通信自由化の前夜、制度改正のまっただなか、CSK社長の大川さんはよく上司の課長だった内海現ITU事務総長のところへ直談判に来てました。
 お茶くみ役の私は、大川さんが大阪弁で通信自由化の必要性を熱く語るのを盗み聞きしていました。“国士”だ、と思いました。ソフト業界初の上場企業として国全体の発展に責任を感じる、そんな風情でした。同時に「セガいう会社買いましてん」というのもそこで聞きました。思い切ったことをする方だ、と思いました。大きい、と思いました。
 そのころ、初めて私に任された仕事が、自動翻訳電話システムの開発計画をたてるプロジェクトでした。世界に先駆け、音声認識や機械翻訳や人口知能の技術を結集し、国家プロジェクトとしてのプランを作る。気鋭の学者、京大の長尾教授(現京大総長)に委員会の座長を引き受けてもらいました。
 ところが役所には検討するための人材も予算もない。それを聞きつけた大川さんは、「そら大事なこっちゃ」、優秀な人材を派遣したり場所を提供したりしてくれました。「見返りは要らんで」。国士です。今のご時世なら、官民癒着とかウルサイことを言われてるかもしれませんが、その大らかな憂国のおかげで、成果が国策として結実してゆき、関西文化学研都市にATRという日本が世界に誇る通信系の研究機関が設立されるに至ったわけです。
■MIT Okawaセンター
 次に私が直接お目にかかったのは、それから10年たった95年2月、ベルギーのブリュッセルで開催された情報通信G7サミットです。米ゴア副大統領やEUサンテール委員長、日本政府からは大出郵政大臣・橋本通産大臣が出席し、デジタル政策を議論したものです。
 民間代表の一人として大川さんも参加していました。そのころ郵政省からパリに派遣されスパイのようなことをしていた私は、サポート役として会場に潜伏していました。席上、大川さんが急に発言しました。「情報社会の未来は子供たちが築く。こんな大人が集まって議論していてもダメだ。子供の声を聞け」
 この会議は、米欧が情報通信政策の主導権争いをみせるなか日本が板挟みにあう構図だったのですが、この日本の民間人による痛快な発言は、ブラボー、国境を越えた賛同を得て、その年の秋、東京で各国の子供たちによるジュニアサミットが開催されることになったわけです。
 98年初め、省庁再編を担当していた私は、大川さんから呼び出され、初めてサシで話をしました。メディアと子供に関する研究機関「MIT Okawaセンター」構想に合意したので、設立資金2700万ドルをMITに個人寄付した、それをきちんと達成するため、あんた役所やめて手伝え、というのです。
 悩んだ末、私はこの大川さんの夢の実現に向け、渡米することとしました。98年秋、MITがホストとなって総勢139カ国3000名による第2回ジュニアサミットが開催され、そこでこの構想が発表されました。MIT Okawaセンターは2003年にオープンする予定で、現在、ビルの設計段階です。教育や学習、音楽や映像、オモチャや遊びなど、デジタルと子供に関する全ての領域を網羅する、世界最大で最先端の研究機関とする計画です。

■CAMP
 私は大川さんが話してくれたことを手帳にメモしてました。抜粋します。
 「平和なネット社会を作りたい。」「新しい表現の様式を切り開く。」「子供たちはきっとやってくれる。デジタル時代の新人たちが実現してくれる。それに貢献するのは、デジタル産業に携わる企業人としての責任。」「ゲーム大国の日本文化は世界に貢献する。日本人の責務」――カッコいいです。
 しかし問題は、足元の日本です。子供たちの創造力を発揮させることがいちばん求められているのが日本であるのに、学校教育は頼りなく、インターネットの普及でも後手を取るなど、日本の子供たちの環境は恵まれていません。ですから、日本にも大川センターを造ろうというアイディアも自然に生まれました。この4月、京都の南、ATRのすぐそばに、「CAMP」という名の子供センターがオープンします。300本のサクラを備える広大な庭に、技術とアート、デジタルとアナログを融合させたワークショップのための参加型施設を設け、子供たちが創造力を発揮する活動を進めます。
 もちろんMITメディアラボが全面サポートするほか、インテルやレゴ、ナショナルジオグラフィック、各国の子供博物館や大学も協力を表明しています。内外の多数のアーティストや研究者もボランティア的に協力してくれています。大川さんのビジョンは世界的な普遍性をもって広がりを見せているのです。
 
■タニマチ
 育てるといえば、若手を育てることにも熱心でした。孫正義さん、西和彦さん、澤田秀雄さん、南部靖之さんなど、数多くのベンチャー起業家が大川学校の出身と言われることは有名です。
 学者も育てていました。大川情報通信基金という財団法人を通じて、内外の若手学者に資金的な援助をしてきました。立派です。ただ、ビジネスで成功し、立派なこともする、という人は結構います。大川さんが類をみないのは、その立派さから逸脱しそうな破天荒なところにあります。
 若い人、現役の人が好きで、また、彼らからもおもろいオッサンとして好かれ、起業家やらクリエイターやらアーティストやら怪しげな人たち(私を含む)やらがいつも周りにいましたね。「遊んでなアカンで」と言ってました。
 実に遊ぶ人でした。飲んで歌って踊って笑って笑わせる人でした。才能ある人に、芸術的におカネを注ぐ人でした。おカネがあればタニマチにはなれます。でも自然に、無造作に、それでいて優美にカネを使うのは年季と度量がモノを言う。
 浮世絵にしろ相撲にしろ座敷芸にしろ、日本文化はこんなお大尽に支えられてきました。それがゲームやアニメといった現代文化につながっているわけです。ところが、オーナー社長が減っていき、最近のベンチャー社長たちも粋人には遠い。文化的な危機です。大川さん、私は心配です。

■挑戦者
 いつもチャレンジしている方でした。セガのドリームキャストも、ビジネスが思わしくないとなると渋面でしたが、高性能で壊れない破格の映像インターネット機という挑戦的なコンセプトは、世界的なインパクトがありました。ゲーム業界が直線的な開発競争の段階を終えて、いよいよクリエイティビティの勝負になってきます。これからやっと面白くなる。やるべきことがたくさんありましたのに。
 今年1月、大川さんは個人資産約850億円をセガに贈与しました。「事業は一代限り。事業で得た資金は事業に返す。」という経営哲学をみずから実践したわけです。投げ打つ、という感覚のビジネスが大川流ですが、人生の最後に、未来へ身を投げ打ったように見えます。
 気性が激しく、ビジネスでぶつかった相手も多かったことでしょう。私もこっぴどく叱られたこともあります。でも、もっともっと叱って頂きたかった。これからも、大きなビジネスをする人、成功する人は続々と現れてくることでしょう。しかし、これほどオモロイ人にはもう巡りあえないのではないかと思います。大川さん、どうかゆっくりお休みになって下さい。 

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