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学長くんガチョーン. 佐藤裕久さん

■学長くんガチョーン. 佐藤裕久さん


同い年の京都人。それも西陣の、実に近い場の出。音楽にもハマっていた。だけど知り合ったのは最近。ピザ、中華、カフェ、そば。バルニバービはどの店も個性的で名も業態も違う100の食堂を運営する。パンクやの~。ホワイトヘアー、あこがれてます。

 

 

◆食の道へのきっかけ

食・商売人の家系。曽祖父がグリルオアシスというレストランをやっていた。祖父の代でお菓子屋に変わった。小学1,2年から店に立っていた。

大学は神戸へ。大きな挫折をした。4年間通って進級は1回。2年の学年で中退。同期の粟田貴也さんはトリドールホールディングス社長。丸亀製麺をやっている。粟田さんは大学を1年でやめた。

34歳のとき、阪神淡路大震災が起こった。人が生きていくギリギリの局面に遭遇。結果的に自分の奥の方にあったなにかに火がつき、食べ物屋を始めようとおもったのがきっかけ。

 

◆最初の起業

学生の動員力があったので、カフェバー・ディスコ・パブなどのプロデュースを学生の時からやっていた。その延長で24歳のときにファッションを手掛ける会社を作った。

当時ファッションが飲食に絡んでいた。コムデギャルソンなど初めて日本らしいかっこいいブランドができてきた。そういうところが、かっこいいカフェやレストランをプロデュースといったように、ライフスタイルにまで関わるようになった。

ファッションと飲食が近い中にあった。飲食のプロデュースをかっこいいサイドからやりたいとおもい、大学を中退しファッションに入った。

しかし、はじめるとなかなか飲食に踏み出すことができなくて、27までファッション界に身をおいていた。

 

◆倒産

27のときに会社をだめにした。

27-33の5年間は借金だけを返すために這いつくばって生きていた。ダイエーの社員運動会のフロアディレクターや企業社内旅行のアテンダー、お色気コンサートの台本書き、人のお店のプロデュース・グラフィック・デザイン・企画づくりなどなど、何から何までお金になることをやった。33で返しきった。

5年間のうち4年半は憂鬱。24で起業し、自分は才能があるという勘違いもあった。27でコテンパンにやられた。生きているのか死んでいるのかわからなかった。親に保証人になってもらっていたので、返済を滞らせるわけにはいかなかった。

 

◆二度目の起業

返し終わる残りの数ヶ月、4年半ぶりに生きる勇気が出てきた。

最初の起業はお金を追いかけた。お金を持ったら幸せになるんだとおもっていた。25,6で年収が同級生の10倍くらいあった。しかし振り返ると、そのときは幸せじゃなかった。

お金を稼いでも、幸せじゃないのはいったいなんなのか。

 

1994年の11月に借金を返し終わった。その2カ月後に阪神淡路大震災がきた。

自分自身がなにか役に立たないといけない。自分の街がぐちゃぐちゃにされて張り裂けそうだった。

南京町で炊き出しをした。

人生でそれっきりだが、涙が止まらなくなった。そこから記憶が曖昧でいつかはわからないが、希望を失い、家族を失い、仕事を失い、家を失い、何もかも奪われた人にさえ、食は生きる勇気や元気を与えるということに電撃を受けた。

 

生まれたときには閉業していたが、レストランを営んでいた家に生まれた。明治生まれの祖母はそのレストランの料理人だった。祖母の作るご飯は洋食。ハイシライス(ハヤシライス)・ドベ(デミグラス)・スカッチエッグ(スコッチエッグ)。祖母の洋食は興味深く、自身も小学3,4年でハンバーグを作ることができた、高学年では中華鍋を煽っていた。

父親だけがそれをよしとしなかった。男がはしり(台所)に立つもんではないと。父がいる日は封印していたが、父がいない日にご飯を作ると祖父・祖母・母がとても喜んでくれた。そのことが炊き出しのときに蘇った。

 

いままで自分がどうなったら幸せか、どうキャリアを積んでいけばいいかという計算の中で生きてきたが、人を喜ばせているときに、こんなに心が喜んでいるということに気がついた。これだ、とおもった。

こども心に祖父母が涙を流して喜んでくれたのが嬉しかったこどもの頃の自分と34歳の炊き出しのときの自分は一緒だった。

 

そこからはもう一目散。お金を借りる段取りと物件を探す段取り。1995年の12月13日に1号店をオープンした。

1号店のオープンから28年(2023年現在)経っているが、店作りのおもいは変わらない。

 

◆バルニバービの業態

人が喜んでくれるのは嬉しい。しかし、喜びは慣れてしまう。

初めてグラタンを食べたとき、こんなおいしいものがあるんだ!とおもった。10回食べたらその感動は薄れる。感動は進化し続けなければならない。

安定していいものを、クオリティを守って事業を成立させるという才能も見識もない。自分は1995年の1月末の炊き出しのときに絶望の淵にある人にほんのささやかでも感じてもらえた喜びのクオリティをいきつづけたい。

リピーターを増やしたり、SNSでバズらせたりすることに興味はない。たまたまたどり着いた、もう一生来ないかもしれない旅人に絶対的な感動を与えることを人生の是としている。

絶えず進化したい。デザインも場所も感動するなにものかの演出も。そうすると同じものが作れない。

 

◆学校

希望を持って大学に行った。神戸外国語大。かなりプラクティカルな英語を学べるとおもっていた。

しかし、外国人の授業は1週間のうち1コマだけ。アカデミックでいいが、あとは古史やシェイクスピアなど。先生の書いたものを一言一句メモし、同じことを書いたら100点を取れる先生もいた。自分は別の解釈もあるということに挑戦したかった。お前みたいなやつは死んでしまえという点数をつけられた。大学に幻滅した。

 

大学は授業を学ぶだけのものではないとなんとなく気がついてはいたが、1年でやめようとおもった。しかし、ふとやめて自分は何をするのかとおもい、いまやめてはだめだ、と進級した。

 

ラグビーもやっていた。そして、学生起業のときに出会った仲間たちは13人上場している。

学び舎であり、かつ出会いであり、ともに青春を過ごす仲間との貴重な時間であるというのが大学の位置づけだった。それの授業以外はクリアできた。

 

◆キミたちへのメッセージ

規制されたものや枠、常識を疑ってかかっていい時代がやってきている。

人が来ない場所、バッドロケーションで店を作ることは頭がおかしいのではないか?と言われる。しかし、店がないから人が来ないだけ。いいものがあればそこに人が来るということに気が付かない。人は見えないものは信じない。

 

iUの学生たちが日本の新しい既成概念に囚われない生き方や学び方、社会に向けてのチャレンジができることを楽しみにしている。

どんどん弾けて、社会からひょっとしてこぼれながらも面白いことをつくっていってくれることを期待している。

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